『君に近づく』


赤地に白抜きで『彩』と書かれた暖簾をくぐり、店に入ると、聞き慣れた声が耳に飛び込んでくる。
「あ、秋彦くん、いらっしゃーい!」
カウンターに立っているのは、明るい茶色の髪を後ろで束ねている、愛想の良い店員。
しかしよく見ると、小柄で可愛らしい印象だが、年齢不詳のよく知っている男だ。
服装は、見慣れた黒いお仕着せではなく、Tシャツとパーカー。
「シンさん・・・・、フロアをひとつ間違えていませんか?」
ここは、臨海公園駅前商店街のビルにある、地下1階のクラブ、『Marine Hall』・・・・の、上の階に最近リニューアルオープンした、ラーメン屋『彩』・・・読み方は、店長の名前と同じ「あや」とのことである。
「言ってなかった? 実は昼間はここでバイトをすることになったんだよ。で、何にする?」
カウンターの中から、シンさんが小首を傾げて尋ねてくれる。
このポーズで調子に乗せられて、よ〜し、おじさん、ドンペリピンク入れちゃおうかな! ・・・と言っている中年サラリーマンの声を、これまでに『Marine Hall』で、何度聞いたことだろう。
もっとも『Marine Hall』には、ドンペリピンクなど置いていないのだが。
「ええっと・・・俺も、ここ来るのは初めてなんで。何がお勧めなんでしたっけ・・・?」
スツールに腰を下ろして質問をしながら、一応自分でもカウンターのメニュー表に目を下ろす。
「何でもお勧めだよ。クリームソーダにコーヒーフロート、ミックスジュース・・・なんならチョコレートパフェでも作ろうか?」
「そう言うと思いました。すいません、ラーメン餃子セットにしてください」
シンさんこと、この大谷晋三(おおたに しんぞう)さんの実家は喫茶店であり、俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)は、これまでにも、彼の職場である『Marine Hall』へ行くたびに、クリームソーダにコーヒーフロート、ミックスジュース、チョコレートパフェを、何度も勧められている。
他の常連客から聞いたところによると、頼めば実際に出てくることもあるらしい。
その時、扉の向こうから水を流す音が聞こえて、中から誰かが出てくる。
「勝手に余所の店のカウンターでオーダーをとるな!」
「あ、トモさん、こんちわっす」
トモさんとは、石田有朋 (いしだ ありとも)さんといって、『Marine Hall』のマスターであり、シンさんの彼氏でもあるらしい。
この二人はいつもこんな感じで、その会話は恋人というよりも、漫才コンビのようなやりとりなのだが・・・まあ、二人きりのときは、それなりなのだろうと思っておく。
「よお。・・・シン、出てこい。秋彦くん、後ろに誰か来ているぞ」
呼びかけは俺に、注意はシンさんに、最後の情報提供は俺にと、交合に視線を変えながら、トモさんは言った。
「おう、直江。遅かったな」
教えられて振り向くと、目をどんよりと曇らせた直江勇人(なおえ はやと)が、いつの間にかそこに立っていた。
「はあ・・・」
直江と教室で別れてから1時間半。
心なしか、すっかりやつれて見える級友が、俺に促されて隣のスツールに腰を掛ける。
「その様子だと、相当、峰に扱かれたみたいだな。シンさん、こいつに、なんか甘いモンくれますか?」
「はーい、じゃあ、秋彦くんのお友達くんには、クリームソーダとあんみつでいいかな?」
言いながら、またカウンターに入ろうとしたシンさんのパーカーのフードを、後ろからトモさんが掴んで止める。
「秋彦くん、やめてくれないか・・・ここ、入店禁止になると、俺たち、けっこう昼飯に困るんだ・・・」
「・・・・すいません」


事の起こりは10日ほど前に遡る。
例により、香坂慧生(こうさか えいせい)に呼び出されて『Marine Hall』へ来ていた俺は、長らく空き店舗になっていた1階のテナントに工事業者が出入りしているのを発見し、それをトモさんに伝えた。
「ああ、3日ぐらい前からやってるな。どうやらラーメン屋が入るらしい。助かるよ。この辺ゲーセンとかバーとかばっかりだしな。ちょっと歩けば天王(てんおう)があるけど、あそこは俺たちが行く時間帯いつも満席だし、カレー屋もあるが、毎日だと飽きるしな」
「すいません、天王を満席にしてるのって、たぶん俺らで・・・でも、その新しいラーメン屋が美味しいとは限らないでしょう」
「それが美味しいんだよね」
厨房に入っていたシンさんが顔を出して言った。
「知ってるんですか?」
「ああ。実は1年ぐらい前まで2階に入ってた店が、下に降りてくるみたいなんだ。当時は夫婦二人で営んでらしたが、旦那の方が身体をこわして入院されてな。しばらくは奥さん一人で頑張っていたんだが、小さなお子さんもいるし、旦那の病院にも行かなきゃならないしで、結局、長いこと店を休んでいたんだ。俺たちも当時はよく世話になっていたんだが、そこそこの値段で、なかなか旨い飯を食わせてくれる、いい店だったから、リニューアルオープンは非常に嬉しい」
「ラーメン餃子セットがあるよ」
「ラーメン餃子セットですと!」
シンさんの言葉に鋭く反応する俺。
このセットには少々こだわりがある。
皮がカリカリの焼餃子と、独自製法のコシがある細麺に伝統の鶏ガラスープ、鉢が埋まるような肉厚の特大チャーシューが3枚も載って、お値段なんとワンコインの500円。
それは天王こと天下王将の人気メニューの名前である。
ラーメン餃子セットは、俺たち泰陽(たいよう)市内の男子高校生のロマンなのだ。
トモさんがニヤリと笑った。
「反応したな。じつはここの店長が、天王の元厨房長でな、味はお墨付きだぞ」
かくして、俺はリニューアルオープンを待って『彩』行きを決定したのだ。
この話へ最初に乗ってきたのは、案の定江藤里子(えとう さとこ)だったが、すぐに直江が加わった。
オープン初日は、さすがに人が一杯だろうということで、週明けである月曜の放課後に日にちは決定。
平日なら、それほど混み合わないだろうし、中間も終わった頃なので俺たちもちょうど良い。
だが、当日になって江藤がキャンセルをしてきた。
「実は先週からお父さんが西日本に出張に行っていたんだけど、今夜帰ってくるのよ。で、明日の朝一番にまた蜻蛉帰りしちゃうから、夕飯をみんなで食べようってことになって・・・」
江藤の父親とは、県警の捜査一課長である、江藤潔(えとう きよし)警視のことだ。
話を聞いてみると、どうやら昔関わった事件とよく似たケースが西日本で発生し、応援で呼ばれているらしい。
それにしても、捜査一課長自ら赴くなんて、よほどのことだろう。
ということで、急遽直江と二人になり、荷物の整理に手間取っている直江を置いて、俺が先に教室を出ようとしたところ。
「帰るのか?」
日誌片手の峰に呼ばれた。
「えっと・・・その、ちょっと行くところがあって・・・」
止められるだろうか。
「配布物の印刷が、まだ残っているんだが・・・」
「あ、秋の芸術週間のやつか・・・」
峰に言われて思い出した。
毎年、泰陽市では文化祭の翌週ぐらいを、秋の芸術週間と指定し、各学校でそれに相応しい活動をすることになっている。
昨年は俺の伯父、画家の原田英一(はらだ えいいち)が来校して婦人画の指導をしてくれたが、今年は我が城陽(じょうよう)学院の卒業生でもある、舞台女優の朝倉(あさくら)あずさが来校して、演技指導をしてくれるらしい。
その告知物を、秋の芸術週間担当教諭である、我が担任、井伊須磨子(いい すまこ)先生が作成したため、全校生徒分の印刷を、3−Eの委員長及び副委員長である峰と俺が無条件で請け負うことになったわけだ。
「原田、ごめん遅くなった!」
そこへ直江が合流。
「なんか用か、直江」
「えっ・・・」
峰に質問されて直江が凍り付いている。
直江は峰がどうも苦手らしかった。
もっとも、無表情がデフォルトで、態度もあまり友好的とは言いかねる峰と、まともに付き合っているクラスメイトは、俺と江藤ぐらいなものだが。
「いや、あの・・・それがさ」
俺は直江に、これから配布物の印刷があることを簡単に説明した。
だから、先に『彩』へ行って待っていてほしいと、続けるつもりだったのだが・・・。
「そういうことなら俺も手伝うよ! だって、みんなでやった方が早いだろう?」
「えっ・・・いいのかよ、直江。なんだか悪いな」
直江は非常に乗りの良い男である。
それと、臨海公園駅前商店街のカレー専門店『FLOWERS』のカレー作りだけが、学生兼FLOWERSアルバイト店員の、直江の取り柄と言っていいぐらいに。
「もちろんだよ。ええと、峰は日誌があるんだよな・・・。じゃあ、俺と原田で印刷すませちまうから・・・じゃあ、原田・・・」
そう言って俺を伴い直江が教室を出ようとしたところ。
「いや、原田は用事があるんだろ。先に帰れ。直江、悪いが、印刷頼んだぞ」
というわけで、なぜか俺は一人で『彩』へ来ることになったのだ。
ちなみに、峰はもちろん、日誌を付け終わった後で、すぐに印刷室へ来てくれたらしいのだが、当然、会話は弾むわけでもなく、その癖にどのクラスの分が1枚多いの、少ないの、印刷の文字列が曲がっているだのと、やたらにチェックの目だけは光らせていて、非常に気疲れしたということだった。
まあ、直江と峰とでは、確かに水と油という気はする。



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