その日の放課後、俺は臨海公園駅からバスに乗ると、春江さんが泊っているという海浜公園のドルフィンホテルで彼女を待った。
ロビーへは入らず、ホテルの玄関で待つこと15分。
「あら、秋彦じゃない」
ジーパンにTシャツというラフな格好で、着物が入っているのであろうスーツバッグを提げた彼女は、タクシーから降りる前に目ざとく俺を見つけ、中から元気に手を振ってくれた。
ウェーブのかかった明るい色の髪は、今日は後ろでポニーテールにしていた。
「こんにちは。筆おろしをお願いしに来ました」
車を降りた彼女に挨拶をする。
「ハハハハ、よ〜し、覚悟しろよ〜」
相変わらずノリのいい彼女は、俺の首に腕を回すとロビーへ引き摺って入った。
だが、向かう先はもちろん部屋ではなくラウンジだ。
彼女はコーヒーを二つ頼むと、俺を見てちょっと真面目な声になる。
「あのさ・・・ごめんね。冴子さんに怒られたんじゃない?」
春江さんは気まずそうに手を合わせながら謝った。
「大丈夫です。あれは、俺も悪いですから・・・今朝のうちに、ちゃんと謝って、許してもらいました」
「本当? よかった」
首をかしげながら確認すると、ニコッと笑う。
やはり母さんと似てる。
「それと、春江さんの事、少しだけ聞いてきました」
春江さんが軽く目を見開いた。
「そっか・・・」
「俺、何にも知らなくて・・・ごめんなさい」
「秋彦が謝る必要なんてないよ。私は秋彦にこうして会えて、よかったと思ってるから」
「俺は両親のことも、実はあまりよく覚えてないんです・・・母さんがどうして殺されたのか、父さんがどんな人だったのか・・・母さんにどんな家族がいたのか、それともいなかったのかということすらも」
俺は本当に何も知らなかった。
そんな自分を、少し恥じ入った。
「そりゃそうだよ、アンタほんの小さな子供だったんだから」
「うん・・・でもさ、そろそろ知りたい。なんで、母さんは17で俺を産む気になったのか、なんで死ななきゃならなかったのか・・・それに、春江さんのことも」
そう言うと春江さんは、俺に一言断り、そして徐に鞄から煙草を取り出し火を点けて、思案深げにしばらくそれを吹かしていた。
このとき俺は初めて、彼女が煙草を吸う人だということを知った。
「本当に知りたい?」
細く煙を吐きながら聞いて来る。
吸い口に付いた口紅の跡が、やけに艶めかしい。
「はい」
そのあと彼女が教えてくれた話は、生半可な内容じゃなかった。
正直、俺は知らない方が幸せだったかも知れない。
しかし彼女は一旦決意を固めると、それを翻す気はないようで、俺がささやかな抵抗を表す意味で目を逸らしても、構わずに話を続けた。
「うちは母が早くに死んで、父がまともに働かない家だったから、姉さんが稼ぎ頭だったの。姉さんは父と私を食べさせるために、中学の頃から殆ど学校にも行かずに仕事をしていた。何をしてるのかその頃の私は知らなかったけど、今思うと碌な仕事じゃなかったと思う」
イメクラ以外にも母さんは色々な仕事をしていたようだった。
春江さんは続けた。
「臨海公園の『ワルキューレ』っていう店で姉さんが冬矢さんと出会って、アンタが出来て、仕事が出来なくなると、父は私を働かせるようになった。当時は自分が何をさせられているのかよく判らなかったけど、どうもいかがわしいポルノビデオに出されていたみたいね」
俺は昨日聞いた彼女の初体験の年齢の理由をこれで知った。
気不味かったが、俺が変に照れると、それは彼女を傷つけることだと思い、我慢した。
残酷な話だということは、俺にも十分判っていた。
あるいは・・・母さんもそういう仕事もしていた、ということなのだろうか。
それはかなり堪えた。
「そんな感じでしばらくは、その手の雑誌やビデオの仕事ばかりしていたけど、英一さんと知り合って、ようやくまともなモデル事務所を紹介してもらえたのよ」
過去を隠すため、生まれ変わる為に本名の氷室(ひむろ)春江から、芸名を蒲公英春江と名乗るようになったという。
路傍に咲く蒲公英のように、踏みつぶされても強くしっかりと根を下ろし、明るく笑って生きる為。
それでも、調べれば彼女が元ポルノ女優という事実はすぐに判ることで、仕事の状況は今でも厳しい。
英一さんはそんな彼女を支援するため、こうして絵のモデルを直接依頼したり、モデルを探してる画壇の仲間に紹介しているらしい。
「英一さんには本当に感謝してるわ」
と、春江さんは言う。
今回のことも、最初から英一さんは俺を春江さんに会わせるために、彼女に仕事を依頼したのだそうだ。
「俺には春江さんに会う権利も、一緒に暮らす権利もあると、冴子さんに言われました」
冴子さんの本音は、もちろん反対だった。
でも昨夜英一さんと話し合い、朝まで時間をかけて考えて、俺の自主性を重んじるべきだという結論に達したと言ってくれた。
なにしろ春江さんは、ただ一人の俺の母方の血縁者なのだ。
春江さんの意見を俺は待った。だが。
「秋彦はどうしたいの?」
「俺は・・・」
少しだけためらった。
だが、もう心は決まっていた。
「春江さんも一緒に、みんなで暮らしたい。けど・・・」
一呼吸置いた。
春江さんは何も言わずに、俺の言葉を待ってくれた。
「・・・俺、やっぱりもう少しだけ童貞でいたいんで」
俺が言った言葉に春江さんは爆笑した。
そして。
「そうねぇ〜、私も秋彦を食べちゃったら、さすがにあの世で姉さんに顔向け出来ないわ」
と言って調子を合わせてくれた。
その後、またしばらく二人で碌でもない話をして時間を過ごした。
別れ際、春江さんは「冴子さんによろしくね」と手を振って、部屋へ戻って行った。


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