『恋試しの谷』

 


終わった後のけだるい余韻に包まれながら、僕は枕元に放置されたままの小さな機械に気が付く。
サイレントモードに設定された恋人の携帯電話、・・・その液晶画面が、明るく光っている。
「いお・・・」
恋人の名前を呼ぼうとして、ふと液晶に表示された名前が目に入り、僕は声を失くした。

山崎雪子(やまざき ゆきこ)。

またあの女・・・。
「慧生(えいせい)、呼んだか?」
シャワーを浴び終えた伊織(いおり)が、部屋に入って来た。
「いや、何でもないよ・・・」
頭からバスタオルを被りながらベッドに近づいてくる。
スタンドの灯りに浮かぶ、武道で鍛え上げられた上半身。
鎖骨に残した僕の悪戯。
「なんか、しんどそうな顔してるぞ」
そう言いながら着信に気が付いた伊織が、携帯を確認した。
機械を今度は机に置き直す。
まるで、僕から彼女の存在を隠したいかのように。
機械から手を離すと、伊織は僕を振り返った。
「ひょっとして、無理させたか?」
ベッドに腰をかけて僕を見下ろしてくる。
少し伏せられた黒目がちな目元は、どこまでも優しげだ。
前髪を掻き混ぜる指先が、酷くもどかしい。
「そんなこと・・・ない」
僕の返事を聞くと、伊織は安心した顔をして微笑む。
そんなことない。
伊織が僕を求めてくれるなら、何をされたって平気だ。
僕を見て、僕を欲してくれるなら。
ずっとじゃなくていい。
二人でいられるこのときだけ・・・僕だけを愛して。
それでいい。
それだけなのに・・・伊織の心はどこにあるの?




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