「左手使えないんだな」
再び山崎の隣へ腰を下ろす。
今度は逃げられなかった。
「・・・・・・」
山崎の動きがピタリと止まる。
痛みを堪えて残りの斜面を下りてゆく山崎を追い、俺も傾斜を駆けおりた。
遊歩道から20メートル下を流れる小さな川。
その手前に広がる平坦な場所に山崎は蹲っていた。
泥だらけの制服に両膝を擦り剥いた哀れな姿で。
左ひじを抱えて。
江藤の話を思い出していた。
「剣道でやったのか、その肘」
「昔の話ですわ」
「でも痛いんだろ?」
「落ちて来るときに打っただけです」
「俺が手を掴もうとしたら、君は握り返してこなかった」
あれだけのスピードで急斜面を滑り落ちていたら、普通は咄嗟に何でも掴むだろう。
まして自分を助けようとする男が手をさしだしているのに。
「あなたに助けて頂く理由がありませんわよ」
「防衛本能で握り返すだろ、普通」
山崎はやれやれといった感じに溜息を吐いた。
「モノ好きですのね・・・あたくしの何が知りたいの?」
「君ぐらいの美女のことなら、普通は何でも知りたいさ」
「まったくあなたって人は・・・」
「何があったんだよ昔、江藤と」
ここで憎まれ口が止んだ。
心配になり山崎の横顔を注意深く見つめて様子を窺っていると、山崎はハァと大きく息を吐き、ようやく自分のことを語り始めた。
「あたくし、江藤里子に勝った試しがありませんのよ・・・」
「そうなのか? そのわりに随分江藤に対して威勢がいいじゃないか」
江藤の山崎に向けたむき出しの対抗心から見ても、二人は対等の関係に見える。
「ええ。そりゃ力は互角ですもの。・・・少なくともあたくしはそう信じています」
「勝ったことがないって今言ったろ」
「それは公式戦の話。練習試合や交流戦では何度も勝っていますわ。それに公式戦で勝ったことがないと言っても、あたくしが負けたわけではけしてありませんのよ。同じ試合に出たことがないという意味です」
「あのさ、俺剣道とかやったことないから判んねえんだけど、普通近所の同い年なら同じような大会に出て対戦するもんじゃねぇの?」
「だから江藤さんはチキン剣士だと言っておりますの。練習試合では、悔しいことに僅かにあの子の方が勝っていますのよ。でも、公式戦になるといつも江藤里子は直前になって風邪をこじらせたり、水疱瘡にかかったり、スイカの食べすぎでお腹を壊したり、自転車で転んで足を怪我したりが重なって、あたくしと対戦したことがないのよ」
「へぇ・・・・だから、敵前逃亡って言ったのか」
とりあえず江藤はここ一番の大勝負で絶対に勝てないタイプと判断した。
そういやアイツが何かで優勝したとか、これまで聞いたことねえな・・・部活で暴れまわってる話はしょっちゅう聞くが。
「そうよ。いくら練習試合で勝っていても、大会で打ち負かした方に軍配は上がるというもの。きっと、みんなの前であたくしに負けるのが怖いだけなのですわ。とんだ臆病者ですわよ」
「う〜ん、・・・それは考えすぎなんじゃないかなぁ」
意外と神経が細いところがあるヤツだとは思うが・・・たとえば幽霊に弱かったり。
「お陰で道場仲間には江藤さんの方が格上と思われたままですし、たとえ優勝できても、江藤がいないからだと言われたり・・・・トロフィーやメダルを手にしてまで、そのような陰口を叩かれるあたくしの気持が、あなたに理解できまして!?」
「あー、はいはい」
いや確かに、それはちょっと納得がいかないだろう。
「いつまでも江藤さんの天下だなんて、あたくしは認めなくてよ」
「でも、怪我しちゃった・・・・?」
「ええ。中学に入って江藤さんが城陽に進学して、やっと団体戦でも対戦できるようになったと思ったら、このザマですわ」
「肘の故障が原因でやめたんだろ・・・?」
「しばらくは騙し騙し続けていたけれど、段々無理が利かなくなって・・・・とうとう先生から、このままだと一生剣道が出来なくなると脅されてしまって・・・・」
「悔しいだろうな」
「ええ悔しいですわ」
「止めて随分経つのか?」
江藤の話では、少なくとも中学までは同じ道場に通っていたんだっけ。
おっ?
「実は、なかなか練習中断が続かなくてね」
悪戯っぽい微笑・・・というのだろうか。
山崎の珍しい一面を見た気がした。
「中断が続かない、ね・・・。ついつい、竹刀に手が行ってしまうってやつか?」
三度の食事並みに、生活の一部になってしまっているんだろう。
「もちろん負担にならないように加減は致しますけど、つい・・・。それでうっかり肘を悪化させて、そのたびにお医者様に雷を落とされて・・・。幸い道場仲間に女子大付属病院の理学療法の先生がいらっしゃいますのよ。だから、主治医のところへ行くまえに、その方にある程度処置していただいたり」
「ははは・・・意味ねー」
山崎でも人並みに先生が怖かったりするのか。
意外と可愛いかもしれない。
「こんなことの繰り返しですから、治るものもなかなか良くなるわけありませんわね。自分でも呆れますわ・・・」
好きなんだろう、剣道が。
「今はどのぐらい悪いんだ?」
「どうかしら。・・・いがみ合いの最中に不用意に持ちかえようとした自分の鞄を、山の斜面に落とすぐらいには、悪いかしらね・・・」
それが原因だったのか。
そして山崎の肘の状態を知っていた江藤は、鞄を拾いに行こうとする山崎を止めて、自分が降りて行った。
さらに怪我をしている山崎の左手を無造作に掴もうとした俺を止めようとした。
「さっき俺が手を引っ張ったせいで、余計痛むんじゃないのか?」
地面に蹲って肘を押さえながら悶絶していた山崎を見れば、相当悪化させたことは察しがつく。
「肘がどうであろうと、恩人に責任を転嫁するような恥ずべき心根を、持ち合わせておりませんわよ。あなたには感謝しています」
「足は見せられなくてもか?」
「変態を軽蔑しているだけのことですわ。混同なさらないで」
そこはあくまで糾弾するわけね。
ま、女としちゃ当然か。
不意にガサガサと木の葉を踏みしめる音が聞こえた。
「何かいるのか・・・・?」
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