『ラクレマ』
*初日:機内にて* 高度1万メートル、シベリア上空。
照明を落とされた機内はひっそりと静まり返り、豪快なジェットエンジン音だけが高い唸りを上げる。
読書にふける者、延々と映画を見ている者、ゲームに熱中する者などごく数名を除き、殆どの乗客がシートのリクライニングを倒して就寝していた。
AF291ボーイング777パリ経由チューファ行き。
乗客数300強のこの大型ジャンボジェット機の、3分の1を埋める本日の乗客は、城陽(じょうよう)学院高等学校御一行様。
本日3月16日より4泊6日の修学旅行である。
この便に搭乗しているのは2年C組からE組までの3クラス。
先行出発のA組、B組は3月の10日から13日までサンユリアヌスで開催されていた『地中海大食いフェスティバル』を堪能し、そろそろ帰国の途についている頃である。
江藤里子(えとう さとこ)がしきりに羨ましがっていた。
「またか・・・」
オセロに15戦全勝したところでゲームを終了し、適当に音楽チャンネルを切り替えながら、5センチほどシェードを上げて仄暗い山岳地帯をぼんやり見ていると、不意に右肩が重くなった。
軽く肘で押し返せば、「すまん」というぼそっとした謝罪の言葉とともにすっと重みが消える。
だが5分もしないうちに、ふたたびそれがこちらへ戻って来るのだ。
もう何度目だろうか。
「やれやれ・・・」
俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)は溜息を吐いて諦めた。
1時間ほど前から隣のシートで、俺に凭れかかりながら眠っている男の名前は峰祥一(みね しょういち)。
クラスメイトであり、本日より朝から晩まで俺と行動を共にする旅のパートナーで、なおかつホテルの同室者。
帰国までの6日間、四六時中一緒ってわけだ。
城陽の修学旅行では多くの学校のような班行動がなく、代わりに二人一組でコンビを組むことになっており、海外旅行が多いため概ね英語の成績上位者と下位者の組み合わせになる。
最終決定は一応本人達の意思に任されるが、そんなわけで俺の相手は峰が務めることになった。
ちなみにこのパートナー及び部屋割を決めた当日、欠席していた一条篤(いちじょう あつし)のパートナーは橋本範幸(はしもと のりゆき)。
橋本はこの日機内で俺達の列の点呼をとっていた生徒でもあり、なぜ彼がそのような委員長の真似事をしているのだろうと不思議に思っていたら、橋本がE組の副委員長だということを峰がこっそり教えてくれた。
そういえばうちのクラスにもそういう影の薄い役職が、一応あった気がする。
反対側の列は、もちろん我らが委員長の江藤がはりきって担当している。
江藤は朝っぱらからハイテンションで空港のロビーを走り回っていた。
集合するなり全員のパスポートを回収して番号と発行年月日を控える傍ら、迷子も探しに行き、列を乱したり騒いでいる生徒の注意をしたり、搭乗が開始されても現れない生徒を迎えに行くために、女子トイレばかりか男子トイレにまで入ったり・・・まあ江藤ならそこは別に問題ないのだろうが、とにかく忙しそうにしていた。
江藤が空港ロビーを走り回って、迷子を回収している間、担任の井伊須磨子(いい すまこ)女史が免税店で化粧品や香水の試供品を掻き集めていたことは、絶対に内緒だ。
旅行中には自由行動の時間も結構あるので、パートナーと言えどもその間まで互いに拘束されるわけではない。
ただ、パートナーが問題を起こせば、もう一人も連帯責任を取ることになるため、自由行動中もパートナーと行動を共にすることが慣例化している。
したがって修学旅行でコンビになった者同士が同じ大学へ進学したり生涯の親友になったりと、その後の人生において絆が深まり易いという・・・嘘か本当かそんな伝説が城陽にはあるのだ。
それだけに、後日学校へ出てきた一条は不満そうな顔をしてずっと俺を見ていた。
「峰、ブランケットが落ちてるよ」
不意に聞き慣れた穏やかな声が聞こえて、目を覚ます。
いつのまにか俺の意識も落ちていたらしい。
「・・・ん、ああすまん」
いかにも寝起きっぽい声がそう返事した。
耳が擽ったくなるような至近距離でのその響きに、俺も飛び起きる。
峰もむっくりと起き上がり・・・その動作で、俺達がどういう状態で寝ていたかを即座に思い知った。
あまりにも恥ずかしい。
思わず通路を見ると、そこに立っていた男も、じっとこちらを見ていた。
キャビンが暗く、表情はよく見えない・・・が、好意的な感情を向けられていないことだけは、なんとなくわかった。
峰がそいつから通路に落ちていたらしいブランケットを受け取る。
俺も一旦姿勢を正して、今度は窓側を向き、改めて寝る体勢をとってみるが、なかなか寝付けない。
胸がざわつく。
「それにしても、トイレが近いやつだな」
不意に隣の席から話しかけられた。
「何の話だ?」
「あいつ、1時間おきにトイレに立ってるぞ」
「そうなのか?」
「そのうち3回はトイレに入らず、じっとキャビンを監視している」
「何?」
びっくりして僅かに腰を浮かせるとキャビンの前にあるトイレの辺りを見た。
「一条・・・何やってんだ、あいつ」
やはり暗くて顔までわからないが、たぶんばっちり目が合った気がした。
「しかも、俺からわざわざブランケットを剥ぎ取ってまで起こしてきやがった」
「・・・・まじか」
「ああ。薄目だったが、取られる瞬間をこの目でちゃんと確認したから間違いない」
「峰・・・起きてたのか?」
「まあな」
「悪い、俺思いっきりお前に凭れてた」
というより、峰もまた俺に凭れていた筈なんだが・・・・。
「構わん。お陰で一条が面白かった」
「お前、全部わざとか・・・・」