『君を見ている』 10月下旬の日曜日。 「私は唐揚げ定食を。・・・君は何にする?」
臨海公園駅前のショッピングモールは、ここ数日、急に冷え込んで来た気温の変化のせいか、結構な混雑ぶりだった。
「へえ、手袋か・・・」
俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)は一軒のショーウィンドウの前で足を止めると、両手に紙バッグを提げたままそこに暫く立ち尽くした。
シックな色合いのマフラーやバッグとともに、重ねて置いてある黒革のそれは、気取りすぎてもおらず、さりげない男っぽさが魅力的に見えた。
「良いかもな」
そして、僅かにディスプレイから視線を上げると、ガラスに映り込む向かいのカフェテラスが目に入る。
日曜の午後、その場所はどのテーブルを見てもカップル客ばかりで、一人で買い物に来ているわが身を振り返り、やれやれと溜息が出てしまう。
「おや、君は・・・」
不意に後ろから声を掛けられて、俺はガラス越しにその人物と目を合わせた。
休日のショッピングモールに、黒っぽいビジネススーツで立っていたのは、落ち着いた雰囲気を持つ、40代半ばぐらいの男性。
「ええっと・・・黒木・・・さん?」
「覚えていてくれたなんて、光栄だな」
俺が振り向き、最近の記憶に残っていたその名前を呼び掛けると、黒木和彦(くろき かずひこ)氏はニッコリと微笑み返してくれた。
「あ、俺はコーヒーでいいです」
「そうか・・・もう4時過ぎだもんな。・・・じゃあ、それで」
「かしこまりました」
そう言ってウェイトレスが下がって行くと、黒木氏は、実はこれが昼食なのだと明かして苦笑した。
あと40分もすれば、また会社へ戻らないといけないらしい。
「お忙しいんですね」
彼が渡してくれた名刺には確か、グランドイースタンホテルの営業本部長という肩書が書いてあった筈だ。
「まあ仕事だからね。・・・今日は買い物?」
「はい。・・・どこもかしこもカップルだらけで、嫌になっちゃいましたけど」
ランチタイムをとっくに過ぎた臨海公園のファミレスは、休日とは謂え5割程度の込み具合で、軽やかなBGMを流し、のんびりとした空気に包まれていた。
カーテンのかかっていない大きな窓を背中に、黒木さんがスーツのジャケットを脱いで簡単に畳むと、自分の腰の隣の辺りへそれを置く。
俺もデニムジャケットを脱いで、椅子の背凭れに掛けた。
「君の恋人は忙しいのかな」
「ああ・・・ええっと、そんなところです。・・・あの、黒木さん。母のこと、聞いてもいいですか?」
再会出来たら是非聞いてみたいと思っていたことを、俺は尋ねてみた。
「いいよ。・・・とは言っても、実は私も、それほど美希を良く知っているわけじゃないんだがね」
美希(みき)・・・彼によると、どうやらそれが、イメクラ時代の母の源氏名らしかった。
「そうなんですか?」
しかし、臨海公園駅前のラーメン屋『天下王将』・・・通称、俺達が天王(てんおう)と呼んでいるその店のトイレの前で、黒木氏は初対面の俺に対して、いきなり後ろから肩を掴んで引き止めてきたのだ。
結果的に、俺を母と間違えて声をかけてきたとわかったが、あのときの黒木氏が発していた、非常に切羽詰まった雰囲気は、“良く知っているわけではない”、などという余所余所しい否定の言葉がしっくりと来るほど、他人行儀なものではなかった筈だ。
「美希・・・君のお母さんの・・・ええっと」
「夏子(なつこ)です」
「そうか・・・・。じゃあ、これからはそう呼ぶことにしよう。夏子さんは『ワルキューレ』の看板スタッフで、そう簡単には会う事すらできない人だったんだ。私も店で会えたのは、たったの一度だけなんだよ」
「そうだったんですか」
それなら、まったく他人に等しいのではないだろうか。
なぜあれほどまでに、母に対して、情熱的とすら言える思いを持ち続けていられたのだろうか。
確か黒木氏は、母を”本当にいい子”だと言っていた筈だ。
その評価は、果たしてどこから来るのだ。
「私が夏子さんを忘れられないのは、店のスタッフと客としてではなく、道端でバッタリ出会ったときのことが原因なんだ」
「道端ですか」
「ああ。・・・当時私は仕事で悩みを抱えていてね。あるお客様とトラブルになって、私にとっては理不尽な形で責任を取ることになった。先方の御宅まで謝罪に行って、会社へ戻ってみると、謝り方が悪いという電話があったと上司に呼び出されてね。翌日もう一度伺うと、今度はラセールのディナーコース付きで、最上階スイートへ泊めさせたら許してやると言われ、上司に相談すると、受けて来い、その代わりボーナスはなしだと宣告されたんだよ」
「何があったんですか、そのお客さんと」
「カーテンに煙草の焦げ跡が付いていたんだ」
「そうなんですか?」
確かにグランドイースタンほどの一流ホテルでそういうことがあれば、ショックかも知れない。
だからといって、フレンチのディナーコースを食べさせろだの、スイートに泊めろだのという、厚かましい要求を通す理由にはならないけれど。
「フロントから連絡を受けてすぐに客室スタッフが確認したらしいんだけど、確かに茶色い痕が付いていた。ただしその部屋のカーテンは、当日の夕方に新品と交換したばかりで、交換後、最初に宿泊したお客様がその方だったんだけどね」
なんだそりゃ。
「だったら、そいつのせいじゃないですか」
俺がそう言うと黒木氏はニヤリと笑った。
「最初に対応したスタッフも君と同じ指摘をしたらしい。まあ、もっとやんわりと・・・ではあった筈だけどね。そしたら、俺がやった証拠でもあるのか、となってね・・・あとはこじれ放題にこじれた」
なんとなく想像が付く、・・・とはいえ。
「釈然としないなあ」
「それでまあ、当時客室マネージャーをしていた私が、菓子折りを抱えて自宅まで謝罪に行くことになって・・・さっきの話、というわけだよ」
「黒木さん、全然悪くないじゃないですか、それ」
「そう言ってくれると有難いよ。けれど、もっと上手く収める方法が、いくらでもあった筈なんだ・・・それが出来なかったということは、僕の責任が問われても仕方がないことになるんだよ」
「そうかなあ・・・だってそんな客がいてもホテルにとってはマイナスでしょうに」
「ホテルが泊まるだけの場所なら、あるいはね」
「違うんですか?」
「違うな。ホテルが提供するのはサービスだ。スタッフ全員が誠意を尽くして、お客様にサービスをする空間なんだ。そして色々なお客様がいらっしゃるのだから、同じように接して良いわけはない。まして指摘を受けているのに、真っ先に言い訳をするなんて、最悪の対応なんだよ・・・いくらこちらの道理が正しいのだとしてもね。お客様が何を求め、何を仰りたいのか・・・、どういう問題を抱えていらっしゃって、自分達が何をしてさし上げられるのか・・・最善の解決策がどこにあるのか。つまり我々の仕事の何たるかが理解できていれば、ああいう事にはならなかったのだろうと、今なら思うよ」
「そういうものなんですか・・・俺は納得できないな。だって理不尽だ」
「そうかも知れない。けれど、たったひとつことさえ忘れなければ、そう難しいことじゃないんだよ」
「ひとつのこと?」
「相手は心を持った人間だ。それさえ覚えていれば、自然と接し方が見えてくるようになるよ。あるいはその出会いに対して、感謝の念すら覚えたくなってくる。彼は、意外と素敵な人かも知れないじゃないか」
「ありえないですよ、そんなの!」
そもそも、そんな出鱈目な野郎との出会いなんて、俺は絶対にごめんだ。
しかし信じられないことに、どう聞いても災難としか思えない、酷い体験を語る黒木さんは、どこか楽しそうですらあったのだ。
本当に不思議な人だ。
「はははは。・・・まあ、君もそのうち、世の中がいかに理不尽だらけかと、嫌でもわかるようになるよ。肝心なのは、そこから何を学ぶかということさ」
憮然としている俺を見ながら、黒木さんはそう言って笑った。
「うげっ、やめてくださいよ。・・・ところで、母とはどこで会ったんですか」
「ああ、その話だったね」
グラスの水を呑む手を一瞬止めて、黒木さんが眉を上げながら言った。
「忘れていたでしょう」
「これはすまない。君があまりにも可愛らしい反応を見せてくれるものだから、いい気になって、自分の失敗談にばかり興じてしまったよ」
「意味がわかりません」
普通に話していただけなのに、俺の反応の、一体何が可愛いというのだろうか。
黒木さんの考えることは、つくづくわからない。