「はははは・・・。まあとにかく、当時の僕はまだまだ未熟だったから、そんな感じでお客様に無茶を言われ、上司からは見放されて、会社に絶望していた。そしてふらりと入った酒場で酔い潰れて、いいかげんにしてくれと店主から夜の繁華街に追い出されたんだ」
「あの・・・黒木さんってわりと自棄酒が多い人ですか?」
そういえば、あのときの黒木さんも、相当酔っていたような・・・。
何しろ制服姿の俺を、女のお袋と間違えたぐらいだ。
「どうだろう。自分ではごく平均的なサラリーマン並みだと思っているけどね。・・・妙なことを聞くなあ」
「すいません・・・話の腰を折りました。続き、聞いていいですか」
「ああ・・・、ありがとう。食べながらでいいかな」
ようやく唐揚げ定食が到着し、黒木さんは几帳面に俺へ確認してから、割り箸を手にした。
「もちろんです」
俺もコーヒーに砂糖とミルクを足して、カップを口へ運ぶ。
「道端で吐いていると・・・ああ、食事中にこんな話をしていいのかな」
「もう話した後ですから、気になさらなくてもいいと思いますよ・・・それに俺は食事してませんし、現在の所、ここで食事をしているのは、黒木さんだけのようですから」
周りはコーヒーやジュースを飲んでいるか、せいぜいケーキを食べているぐらいであり、その誰もが、いちいち俺達の会話へ聞き耳を立てているような様子もなかった。
「そうか・・・すまないね。先に確認をするべきだった」
「いいえ」
随分と神経の細やかな人だと、俺は思った。
これではストレスを溜めて自棄酒が多くなるのも、無理はないかもしれない。
「とにかく、夜道で蹲っていた僕は、当然ながら道行く人に避けられていた筈だけど、一人だけそっとハンカチを差し出してくれた女性がいた。それが美希・・・夏子さんだった」
「そうだったんですか」
「しかもあの子は、そのとき確かに僕の名前を呼んだんだ。たった一度店で会っただけの僕をね・・・色々溜まっていた時期だったから、久しぶりに触れる人の優しさに、僕には彼女のことがまさに空から舞い降りた天使に見えたよ。それから何度か、またワルキューレに行ってみたが、やはり美希に会う事はできなかった。そして間もなく彼女は店を辞めてしまった」
「そうですか」
ということは、その頃お袋はすでに俺を妊娠していたということなのだろう。
そう思うと、とても不思議な感じがした。
俺はお袋の胎内で、黒木氏に会っていたのかも知れない、ということなのだから。
「しかし僕はどうしても美希に会って、きちんとあの時のお礼が言いたくてね・・・色々な店を渡り歩いたんだ。てっきり美希が他の店に行ったものだとばかりに、僕は思っていたから。結局1年経っても、2年経っても美希と再会できず、いつしか僕は、彼女がすでにこの街を出て行ったのだろうと判断して、諦めてしまった。そして数年経ったあるとき、思いがけない形で、彼女がまだ、ほんのすぐ近くにいたのだということを、僕は知ったんだ」
「事件の・・・・ニュースですか?」
「ああ、・・・・本当にショックだった。ところで君はひょっとして、美希・・・そのお母さんの事件のことを・・・」
不意に黒木氏が俺に聞いてきた。
「はい・・・ほんの少しですが、まあ目の前で見ていましたから」
「そうか・・・それは何というか、とても辛かったね」
黒木氏はそう言って顔を曇らせた。
「いえ・・・それがその、最近ある事がきっかけで漸く思い出したんです、断片的に。でも、実は俺もあまり記憶になくて」
これからも思い出す可能性はあるが、今のところはアパートで母が霜月勤(しもつき つとむ)と争っていた場面、そして昔から覚えている父の死体しか記憶に残っていない。
「そうなのかい。そういうことは、なるべく覚えていないほうがいいのかも知れないね」
そう言うと、黒木氏は不意に時計へ目をやり、箸を置いた。
「ひょっとして時間ですか?」
「ああ、そろそろ戻らないといけない。君はゆっくりしていていいよ」
言いながら黒木氏は立ち上がる。
俺も彼に続いた。
「いや、俺も帰りますよ」
俺のコーヒーはとっくになくなっていたが、黒木氏の定食は、まだトレイに半分ほど残っていた。
結局、俺に付き合って、まともに食事が摂れなかったようであり、申し訳ない気持ちだった。
ファミレスを出ると、俺達は臨海公園駅方面へ向かい、並んで歩いた。
交差点を左折したところに、彼の職場であるグランドイースタンホテルがあり、右折すると、先ほど黒木氏と遭遇したメンズブランドのショップがある。
直進して次の交差点まで歩けば臨海公園駅があり、俺はそこから電車に乗って帰宅する予定であるが、その前にやることがひとつあった。
「ところで、あの彼は元気かい?」
歩道を歩きながら、黒木氏が聞いてきた。
「ああ、峰ですか? ええ、まあ・・・あのときは、本当にすみませんでした」
天王で会ったとき、いきなり黒木氏へ掴みかかった峰祥一(みね しょういち)の非礼を、俺は改めて詫びた。
「いやいや、こちらこそ。・・・・まあ、見知らぬ中年男に恋人が絡まれていて、大人しくしている彼氏はいないだろうからね」
ハハハと笑いながら黒木氏はそう言った。
俺は言われた意味を少し考え、猛烈に恥ずかしくなっていた。
「ちょ、ちょっと・・・それは誤解ですよ! 峰はそんなんじゃありませんから」
「違うのかい・・・それにしては随分と、怖い顔をして僕の胸倉を掴んできていた気がするけどなあ」
「怖い顔は仕様です」
「ひどいな、君は・・・。じゃあ、僕はこっちだから」
「ああ、ええっと、今日はどうも、ごちそうさまでした」
俺は黒木氏へ一礼した。
「やめなさいよ、コーヒーぐらい、お礼を言ってもらうほどのことではないのだから。・・・そうだな、出来れば、今度は一緒に食事でもしながら、ゆっくり話せるといいね」
「はい、ぜひ楽しみにしています。・・・ああ、御馳走してくださいって意味じゃないですよ」
「いやいや、そこはさせてもらうよ。・・・それじゃあ、彼にも宜しくね」
「はい。・・・黒木さんはこのあともお仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとう。ところで、早く行かないと売り切れちゃうよ」
そう言って黒木氏が、不意に俺の後ろを指さした。
「えっ・・・」
釣られて俺が振り向きかけると。
「喜んでくれるといいね。・・・じゃあ、本当に時間がないから僕は行くけど、そろそろ暗くなってきたから、気を付けて帰りなさいね」
すぐにそう言われて、再び黒木さんに視線を戻す。
「あの、ええっと・・・黒木さんもお気を付けて。今日はありがとうございました!」
「どういたしまして」
そう言って、歩きながら手を振ってくれた黒木氏に、今一度頭を下げる。
彼がホテルへ向かってまっすぐに進み出したのを確認してから、俺は背後の店を振り返った。
そこには”SALE”の連続した赤文字が目を引く、さきほどのメンズショップのショーウィンドウと、ガラス越しに見える、仕事や学校帰りらしき、若い男性の買い物客の姿があった。
「やべ・・・」
そしてショーウィンドウ越しに黒革の手袋を確認すると、ホッと胸を撫で下ろして、俺も店へ入った。



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