数日後の平日、五限目が終わった時の事。
「あれ、一条また帰んの?」
黒板に残されていた英?の授業内容を書き写していると、前の出入り口付近から聞こえて来たその会話に、俺はシャーペンを止めて顔を上げた。
そこには鞄を肩から提げた一条篤(いちじょう あつし)が立っている。
「ちょっとね」
「そっか、お前も大変だな・・・有村(ありむら)ちゃんに言っとこうか?」
「いや、井伊(いい)先生に早退届を出してあるから。ありがとう」
声をかけてきた大森貞治(おおもり ていじ)にそう告げて、そのまま篤は教室から出て行こうとしていた。
「あの野郎・・・」
俺は慌てて立ち上がると、後を追いかける。
「うわっ・・・」
「悪い、直江」
教壇の近くでぶつかり掛けた直江勇人(なおえ はやと)に謝り、俺はドアへ向かった。
「ちょ、ちょっと原田ぁ〜、これ、もう消しちまっていいのかー!?」
「ああ・・・ええっと・・・」
後ろから呼び止められて、直江が日直だったことを思い出した。
不意に峰と目が合う。
「すぐ戻るんなら、もう少し残しておくけど・・・」
直江の方から折れてくれたが、そうすると10分間の直江の休み時間を、俺のせいで殆ど拘束することになってしまう。
だからといって、俺としてもこれ以上勉強をサボるわけにはいかなかった。
「悪い、直江・・・あとでノート見せてくれるか?」
「うんべつにいいけど・・・じゃ、消しちまうぞ」
「ああ、ごめんな」
そう告げて、俺は教室を出て行った。
篤はすでに階段を降りようとしていた。
俺はダッシュで追いついて、後ろからその腕を掴む。
「・・・君か」
一瞬だけ驚いた目を見せた彼は、しかしすぐに冷静な声で、そうとだけ言った。
「帰るなんて聞いてねえぞ」
「君に許可をとる必要があるのかい」
「なんだよそれっ・・・」
それは恐ろしいほどに冷たい声だった。
大森と話していたときのほうが、よほど友好的で優しい。
何より、表情が・・・俺には耐えがたいものだった。
黒目がちな双眸の中心に俺を映す、見慣れすぎている筈の篤の面・・・なのに、俺に呼び止められてそこに立っている彼は、まるで知らない男のように、無表情で俺を見ていた。
「放してくれないかな。僕は忙しいんだけど」
チャイムが鳴る。
「・・・・・・」
忙しい・・・・かつてこんな粗雑な言葉で、篤に拒絶されたことは、一度たりとてなかった。
俺が手を引くと、篤はすぐに背を向け、そのまま黙って昇降口を目指して、階段を下りて行った。
ただの1回も、俺を振り返りそうな気配は感じさせずに。
「おい、次の授業始まるぞ」
壁に背を預けて廊下に立っていた峰に呼ばれた。
いつからそこに立っていたのだろうか。
俺は結局それ以上篤を追いかけることもできず、大人しく峰に続いて教室へ戻った。
「なあ、今日お前んち行っていいか?」
教室へ戻る間際、突然峰がそう尋ねてきた。
「えっ・・・」
不意打ち過ぎて一瞬、意味がわからなかった。
「勉強を見てやるって約束しただろう。俺んちに来てもらえるといいのだが、まあ・・・うちは色々と厄介だからな」
「そっか・・・」
そういえば、以前に峰とそんな約束をしていた。
このままだと俺は、大学進学はおろか卒業すらも危うい。
体育祭で喧嘩をして以来、まともに口を聞いてくれなくなった篤を頼るわけにもいかず、卒業アルバム制作班長に就任した江藤里子(えとう さとこ)も、最近は何かと忙しそうだ。
だから峰がこう言ってくれるのは、俺にはとても有難く、心強い話だった。
「こら、もうチャイム鳴ってるぞ」
そこへ古文の和泉良一(いずみ りょういち)教諭がやって来て、後ろから頭を小突かれた。
「痛っ・・・すいません」
「じゃあ放課後な」
そう言って峰が自分の席に着く。
「あ、おい峰・・・」
「ほら、原田もさっさと席に座れ」
慌てて呼びとめようとした俺は、後ろから先生に肩を強く引っ張られ、自分の席がある逆方向へ押し出された。
結果として、なんだか一方的に峰から約束を取り付けられた気がしたのだが、考えてみれば断る理由も特にないので、俺も大人しく放課後を待つことにした。
04
『城陽学院シリーズPart2』へ戻る