「百竜ヶ岳(ひゃくりゅうがたけ)の崖下で、死後一週間の遺体で発見された。春先のことで遺体は動物に食い荒らされて、損傷が激しかったらしい」 返して! 冬矢(とうや)を返して! 階下で父の名を呼びながら、泣き叫ぶ冴子さんの悲痛な声。
「それは間違いなく、おにいちゃん・・・霜月本人なんですか?」
俺は急に不安になった。
冬眠が明けた獣に肉を食いちぎられて、どの程度の原型を留めていたというのだろうか。
本当に、おにいちゃんで間違いなかったのだろうか。
「・・・だから、歯型が一致していると、さっき原田さんが仰っていただろう。何を聞いていたんだ」
「あ・・・そうか」
すぐに峰が応えてくれて、おれは自分の迂闊さに呆れた。
そして、峰の声に含まれた僅かな苛立ちにも俺は気が付いていた。
そういえば、前にもこんなことがあった。
「・・・いやいや、確かに僕らも、まず最初にそこを不安に思ったんだよ。けれど霜月は泰陽市を出てS県を訪れた11カ月後に、地元で歯医者に通っていたんだ。そのときにレントゲン写真を撮影していてね、亡くなるほんの1か月前のものだから、治療箇所まで完全に一致していたらしい」
英一さんが峰の短気に苦笑しながら教えてくれる。
しかしなるほど、それなら間違いないことだろう。
「百竜ヶ岳にはなぜ行ったんですか?」
すぐに気を落ち着けて、また峰が新たに尋ねた。
「君は、本当に質問が多いね・・・」
英一さんが苦笑した。
「疑問は全て払拭しておきたいだけです」
「そりゃ登山ぐらいするんじゃねえの?」
俺が応えた。
逃亡中というならともかく、いちおう霜月は無罪放免で自由の身だったのだ。
春先の花が咲き綻びかけた小春日和に、山へ登ったって可笑しくはないだろう。
しかも百竜ヶ岳といえば、1000メートル程度の、初心者でも登り易いような高さだ。
気まぐれに山へ入っても、べつに不思議はない。
「登山の動機まではわからないけどね。霜月はその山へ、梁虎城(リャン・フーチョン)という中国人とともに登っている」
「中国人!?」
俺と峰がほぼ同時に繰り返した。
「ああ。どうやらリャンと霜月は、霜月のバイト先である、『牛魔王』という名のラーメン屋で知り合ったようだ」
「西遊記ですか」
峰が言った。
確か牛の妖怪で、そんな登場人物がいただろうか。
英一さんが苦笑する。
「単なる店の名前だから、そこは軽く流していいと思うんだけどね・・・で、霜月はなぜかこの密入国者の面倒を、よく見ていたらしいんだ」
「しかも密入国者・・・」
峰がぐっと低い声で呟いた。
さすがに俺にも、何やら話の雲行きが怪しくなってきたような気がしていた。
「入国管理局に記録がないから、そういうことのようだね」
英一さんが淡々と続ける。
「その中国人の行方はわかっているんですか」
峰が聞いた。
俺もそこが気になった。
「11年前のことだよ。わかっているなら、とっくに強制退去になっているだろう」
「ああ・・・そりゃそうか」
当然だった。
「もう一度聞きますが、死体は霜月のもので間違いないんですよね」
先ほど俺を罵ったにも拘わらず、今度は峰が強く念を押して確認する。
「お前何を・・・」
峰は何を言いたいのだ?
「江藤警視の報告によると、間違いない筈だよ。それに霜月のアパートには、彼の死亡推定日時より後の新聞がポストへ残っており、水道、ガス、電気の使用も、その日を持って途絶えている。当然本人は戻っていない」
「となると・・・、ひょっとしたら霜月は、その中国人に殺されたのかも・・・」
俺にはそんな考えが、頭に浮かんでいた。
「うん。もちろん警察もその線で捜査していたみたいだよ。だが、現場に争った形跡はなく、金品などの所持品、運転免許証や保険証といった、身分証明物などが本人の携行品として、残されたままになっていた」
「衝動的な犯行なら争った痕跡があるだろうし、計画的なものなら、身分証明物は残さない筈・・・そういう当たり前の考え方からすれば、確かに殺人の線は考えにくいですね」
含みのある言い方をして、英一さんの言わんとしたことを、おそらく俺のために峰がフォローした。
「なるほど。でも、あのぉ・・・江藤の親父さんは、どうして探偵なんて使って、そんな報告をしてくれていたんですか?」
ちなみに江藤の口からは、あの事件に関する話を、俺は一切聞いたことがない。
そもそも俺があの事件の関係者だと、江藤が知っているのかどうかすら怪しい。
多分江藤は、何も知らない。
「それは間違いなく僕のせいだろうね」
そう言って英一さんは苦笑した。
「ええっと・・・、江藤の親父さんを怒鳴ったっていう」
「うん。あの当時、江藤警視・・・その時は警部だったんだけど、彼は、泰陽文化大学と我が母校である芸大の学生達がやらかした、ドラッグパーティーの事件を捜査していたんだ」
「ドラッグパーティーっすか・・・」
物騒な代物がまた、当時は出回っていたようである。
「ああ。情けないことにね・・・学生達の中に、何人かそういう物を組織的に販売している不良共がいて、もともと厚生局が調査していたらしいんだ。それであるとき、泰文(たいぶん)と芸大の学生達が開いたパーティーで、意識を失った学生がいて、女子大付属病院に運ばれたところ、薬物が絡んでいるとわかってね。すぐに捜査本部が泰陽署に作られた」
「それで間違えたと・・・」
英一さんも、案外とおっちょこちょいだ。
だが、そのぐらい英一さんは俺達の為に、怒ってくれていたということなのだろう。
そう思うと、胸が熱くなる。
あの夜の事は俺もよく覚えている。
今思うと、おそらく彼女の目の前には、霜月釈放を報告しにきた刑事達がいたのだろう。
母を殺害し、父を自殺に追い込んだ男が、無罪放免で釈放された・・・それは、父の実の姉である冴子さんを深く傷つけ、彼女の夫である英一さんを怒らせて当然だった。
09
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