『水色とビタースウィートの思い出』



初めてキスをした。

可愛いね……耳元で聞こえた筈のその言葉は、昔日の思い出と重なり脳裏へ吸い込まれて消えた。


 学園口駅前に新しくオープンしたダイニングバー『ラナペケーニャ』は、この晩、20歳前後の若い客で賑わっていた。というのも、学園口駅を最寄り駅とする泰陽(たいよう)文化大と泰陽女子学院大学の合同コンパが原因である。
 城西高校出身で同じ英文科の我妻新菜(わがつま にいな)に誘われて、ここへやってきたのが午後6時過ぎ。サークルを終えて、先輩方が当日20時から開催される青ワッパ検証会の参加者を募っていたとき、隣にいた我妻から唐突に腕を掴まれ、そのまま引っ張られてきたのだ。
 ちなみに青ワッパとは青垣(あおがき)市から泰陽市に流れ込む清流青垣川に棲息するという妖怪で、緑色の皮膚と頭部にある皿、人を水中に引き込み溺死させることなどの類似点から、河童の一種ではないかと伝えられる。まだ会ったことはないが目撃例は多く、私はこの目撃談を高校時代の友人、山崎雪子(やまざき ゆきこ)から最近聞いていた。


「印象と言われてもねえ……何しろこっちは退魔の真っ最中のことでしょう? 尻子玉を寄越せとかなんとか仰っていたけど、正直、それどころじゃなくて、あたくしもよく覚えていないの」
 友人の山崎がいつの間にか泰陽市の魔物退治を始めたと知り、携帯の向こうから聞こえてくる冷静な声に耳を傾けながら私は盛大にショックを受けていた。その電話で山崎へ、同じオカ研OGとして、今度は是非自分も魔物退治に連れて行ってくれと申し出たら、早速週末のまっ昼間に私は引っ張り出されたのだ。
 行き先は城南(じょうなん)女子学園の百合寮。母校であり、元寮生の私にとっては3年分の思い出がいっぱいに詰まった馴染み深い場所でもある。
 百合寮とは在校生やOGによるニックネームで、正式名称を聖白百合宮(せいしらゆりきゅう)と言い、寮監以外はもっぱら小中高の城南女子在校生の為にある施設の筈だが、1年先輩の本城薫(ほんじょう かおる)だけは特別に、本来の資格失効後も名誉寮長としてすっかり棲みついている。名誉寮長が何を任された役職かは、寮生だった私にとっても今なお不明で、おそらく誰も知らない。
 ともあれ、春休みに突入し寮生の大半が帰郷した百合寮には、当日、多くの後輩達がダイニングへ集合していた。そして幹事の開会宣言によって、漸く自分が『名誉会長を愛する会』に足を踏み込んだらしいと判明したのだ。
 新1年生達が淹れてくれるアールグレイの清涼な香りに包まれながら、ぼちぼちと山崎が打ち明ける。本城薫ファンクラブが月一定例で主催するこのお茶会へは、先輩本人からどうやら以前より再三誘われていたらしい。なるほど、あれほど苦手にしていた先輩の誘いを受ける気になったとは、卒業を機に礼節や人づきあいについて自省して、山崎も随分と性格が丸くなったのであろうと、私は感心しかけていた。
「本日は佐伯(さえき)に退魔を任せるから、責任をもってあたくしを守りなさい」
 白いティーカップを片手にした本人から、有無を言わさぬ低い声と上から目線で耳打ちされ、そして一瞬でも山崎が殊勝になったなどと夢想しそうになった自分を大いに後悔した。その後山崎からあからさまに防波堤替わりに扱われ、私が本城先輩の相手をしている間、山崎はというと、ファンクラブ会員でも元寮生でもないくせに、指定農園特注のアールグレイやスペシャルブレンドアプリコットティーを何杯もお替わりしながら、百合寮自慢の特製ママンの味パンケーキへ城南女子養蜂園の採れたて純粋ハチミツを盛大に塗りたくって食べていた。
 果たして青ワッパよりも恐ろしい泰陽市の魔物とは、どうやら本城先輩のことのようだと、漸く判明したうららかな春の午後だった。ちなみに現状のところ山崎の尻子玉は無事であり、今も元気らしい。


 ……そんな経緯もあり、あまり真面目に本来の活動をすることがない大学のオカルトサークルで、珍しくそれらしいテーマにおいて検証活動があるというのなら、ぜひ参加したかったのだが。
「先輩〜、私と佐伯は用事があるので不参加です〜」
 隣でスマホをオフにしながら我妻が、本人の同意も省略して私をサークル室から引っ張り出してしまったのだ。
「ちょっと、なんで勝手に返事するの……っていうか、どこ行く気?」
 サークル室が入っている5号館から、西日をまともに受けている裏門へ向かう。正門は大通りに面しているが、裏門の方がバス停に近い。本格的にどこかへ移動するつもりらしい。
「お願いっ! 今日のコンパに参加予定のリコとナオが、急に来れなくなって、頭数が合わなくなっちゃったのよ。座ってるだけでいいから、ねっ?」
「ええっ……急にそんなこと言われても、大体私コンパなんて行ったことないし……。それに二人も欠員が出たのに、一人行ったところで数が……」
「メンズは泰文(たいぶん)中心だから、大したことはないんだけど、噂によるとどうやら、すっごい隠し玉連れてくるらしわ。ひょっとしたら、あの一条建設の御曹司じゃないかってリコが言ってるのよ。だとしたら、ぜひお近づきになりたいじゃない?」
 言いながら我妻は鞄から取り出したスマホのアドレス帳を開いた。噂とはどの界隈におけるいかなる筋の噂なのか、人々が無責任な風説を立てるほどに、この度のコンパはもはやレジェンドなのか、いやむしろ一条君が生きたレジェンドなのかと気にはなったのだが、確認する必要もないほど無責任である我妻の気性については、出会って数週間ですでに承知しており、敢えてツッコむ必要もないと判断して、人としてマナーに欠ける言い草を窘めるに留めた。
「今の言い方はちょっと泰文生に失礼だよ。他はともかく、仏教学部だけなら名門だし……そりゃあ、将来お寺に嫁ぐ気がないなら、知り合っても仕方ないかも知れないけど……というか、そのリコちゃんは、結局来ないんだよね? だとしたら、たぶん間違ってると思うよ。だって一条君は春からエスパニアの大学だし、そもそも戻ってたとしても、あの子がコンパになんか……」
「リコ? 我妻だけど、あんた夏樹(なつき)の番号って……ちょっと、リコ? ねえ、聞いてる?」
 相手と繋がった電話のスピーカーから、妙に高い声が聞こえたかと思うと、間もなく無音になった。どうやらタイミングの悪い相手から一方的に切られたようだ。
「あのね……だから、私もコンパには興味なくて……」
「ちょっと、信じられない! デートの最中だからって切られちゃったよ。仕方ない、こうなったら学務課に問合せよう」
 噂の情報源であるリコちゃんは、コンパの前に運命の相手を見付けたようだった。幸せ絶頂期だからといっていい加減な噂を流布して良い根拠はないが、付き合い始めの地に足がついていない、親友でもない同姓の友人が垂れ流した与太話を、迂闊に信用する方も愚かだろう。
「まあ、デートの最中にコンパの話はやっぱりマズイと思うよ……というより、私の話も聞いてってば……ちょっと、我妻っ」
 目下コンパの頭数確保しか頭にない我妻は、私の手を引いたまま、今度は学務課へと急行した。結局個人情報保護の観点から学務課で情報は得られず、喫煙所の前で頭を抱えながら唸っている我妻の携帯に、意外に責任感の強いリコが件の学生の連絡先をメールで知らせてくれたのがその直後。無事に欠員を補充したところで、改めて我妻と、私、佐伯初音(さえき はつね)はコンパ会場である『ラナペケーニャ』へ向かったのだ。

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