「どうしたの?」
不意に尋ねられて意識を引き戻される。
「べつに……」
遥か幼い日々の記憶へ再び封印をし、共にいる男を見つめ返すと、杉橋は目を細めた。その距離がどんどんと近くなる。なんとなく落ち着かず、無意識に顔を僅かに背けたら、杉橋は開いた首筋へ顔を沈めてきた。押し付けられた鼻先がくすぐったい。
「良い匂いがするね、香水?」
「そんなのつけてない……あ、あの……」
ソファの背凭れと背中の間には男の腕が入っており、掌は脇腹の微妙な位置にある。先ほどから何度か、杉橋の指先が乳房へ接触しており、下手に動くとまた触れてしまいそうで、抵抗が弱くなる……。反対側の手は、もはや当たり前のようにこちらの膝へ置かれっぱなしだ。そのせいで皺が多くなり、ロングの筈なのに、ときおり膝がしらが丸見えになっている。気が付く度にスカートをさりげなく直すのだが、また無造作に杉橋が膝へ手を戻し、皺にしてしまう。
これらのことを、最初は全て偶然だと考えていたが、徐々に男を疑い始めた。とにかく、今はこの体勢を何とかしてほしいと思い、その一心で立ちあがろうとした。すると、脇腹の手に強い力が入り、咄嗟に相手の顔を見る。次の瞬間、急激に視界が暗くなって……口唇が奪われていた。
ファーストキス……そんな陳腐な言葉が頭に浮かび、同時に色褪せていった。
可愛いね。
耳元で聞こえた筈の言葉は、昔日の思い出と重なり脳裏へ吸い込まれて消えた。
「ひょっとして初めてだった?」
杉橋が綺麗な二重瞼の目を細め、じっと覗き込むように見つめる。同時に辺りへ漂うアルコール臭……それが、自信に満ちた微笑を湛える、男の口から吐き出されたものだと理解した。
「気持ち悪……」
気が付けば声に出していた。無意識に自分の口唇を手の甲で拭う。言葉と行動は、プライドの高い男の自尊心を傷つけ怒りを買うには充分すぎた。
「なんだと」
過剰なほどのレディファーストと、甘ったるい口説き文句と、引っ込み思案な女をその気にさせるための優しいが積極的なボディタッチ……そんな杉橋の仮面はガラガラと音を立てて崩れた。立ちあがった男は握り締めた拳を振り上げる。咄嗟に逃げることを思いつかず、殴られそうな予感にギュッと目を閉じて覚悟したが、予想した衝撃はいつまで経ってもやってこない。不思議に思って目を開けると、自分に拳を振るおうとした男がテーブルの向こう側で無様に尻餅を突いていた。良く見ると、顔が相当赤い……。
騒々しいBGMと店内のざわめき……いつのまにか戻っていた我妻が、ソファの端から心配そうにこちらを見ている。弱々しい微笑を返すと、相手もホッとしたように笑い返してくれた。
「女相手に暴力なんてダサすぎ……最悪だわ」
「えっと……」
聞き慣れない声の発生源に視線を移した。自分のすぐ隣に、見覚えのない人物が立っている。
強い口調と勇ましいで立ちで、一瞬性別がわからなかったが、声と背中まで伸ばした艶やかな髪、そして白いブラウスに包まれたスレンダーなラインを、僅かに歪ませる控えめな膨らみから女性だと判断出来た。自分も背が高いほうだが、彼女も相当長身である……声や身長も似ているが、サバサバとした雰囲気がなんとなく本城薫を思い出させる。
「夏樹、遅いわよ」
「ごめんごめん、……っていうか、コンパだっていうからバイト先から走って来てみたら何よこれ。DV野郎とホモしかいないじゃないの。会費、本当にあんた持ちなんでしょうね」
「ああ、この人が……」
我妻との会話で、漸く件の夏樹登場だと理解した。
本城薫のような歯が浮くセリフが出て来ない点はいいとしても、あけすけな物言いに茫然とさせられる。
それにしても、会費免除とは随分な特別待遇であろうと思い、理不尽さに我妻を睨みそうになると……。
「えーっ、会費はちゃんと払ってよ!」
当の我妻が猛反論した。どうやら話の食い違いがあるらしい。
「嫌だよ。リコから行くだけでいいって聞いたもん。じゃあ半額は?」
なるほど、またもやトラブルメーカーのリコがやらかしたようだった。
「っっ……わかった半額でいい」
そして、あっというまに値引き交渉の成立である。
「え、いいんだ……?」
思わず我妻を見る。
夏樹はヤッタとか何やら歓喜の声を上げながら、なぜか元々杉橋が座っていた場所……つまり私の隣へ腰を下ろし、目の前のジョッキをぐいっと呷る……それも杉橋が頼んだものだった。
「あの……ひょっとして……ちょっ?」
たった今自分を助けてくれたのは彼女かも知れない……それを確かめたくて相手を振りむいた途端、なぜか胸をぐいっと押し返された。
「てめぇ……ざけんなっ……」
「きゃあっ」
一瞬の混乱。そして夏樹は目の前で振りあげたデニムの右脚を無造作にテーブルへ下ろし、……なぜか自分の右手をじっと見つめている。
「あの、お客様……」
漸く騒ぎに気付いた店員が、遅まきながら様子を見にやってきた。悲鳴を上げた我妻が説明を求められ、口元を押さえながらおろおろと話している。
朝倉を取り囲んでいた泰文の学生達が、今頃事態の収拾を図り、焦りながら倒れている杉橋を抱き起こした……高い鼻梁の下が血塗れだ。ギョッとして夏樹を振り返る。
「すいませんっ……なんか、コイツ悪酔いしちゃったみたいで」
「すぐに連れて帰りますから」
男子達が自分達と店員へ頭を下げ、流血の止まらない杉橋を引き摺るように出口へ向かった。両脇を抱えられている杉橋は、未だに喚きながら暴れているが、さすがに男二人に押さえられては逃れられない。血塗れの口から、覚えていろだの、ぶっとばすだの、負け犬の遠吠えを文字起こししたような捨てゼリフを次から次へ叫ぶ様子は、わりと憐れみを誘って見えた。朝倉翼が心配そうに気遣いながら、お絞りを片手に杉橋の止血を試みていた点だけが意外だった。
「……わー、すっごい巨乳だった」
不意に場違いなセリフが聞こえて隣を見ると、夏樹が感触を反芻するように指を動かしながら、自分の手を見つめていた。脚もテーブルに投げ出されたままだったが、店員が遠慮がちに片付け始めると、漸く気付いたように居住まいを正す。ガサツなのか天然なのか……多分、両方なのだろう。
「あの……二度も助けてくれてありがとう。えっと、私は佐伯……」
「佐伯初音でしょ? リコ経由で我妻から聞いてる。和嶋夏樹(わじま なつき)」
すっと出された右手を見る。爪の先まで気を遣った、とても綺麗な手だった。改めて相手の顔を観察する。切れ長で視線の強い目元、形の良い鼻、少し大きめの口……薄暗い照明では素顔に見えるほど化粧は薄いのに、妙に迫力のある、印象に残る美麗な顔立ちだった。そして、なぜかどこかで会ったことがあるような気がした。
「佐伯さん?」
「あ、ごめんなさい。よろし……」
名前を呼ばれ、いつまでも見惚れている自分に気が付き動揺して謝る。そして漸く相手の手を取ると。
「この度はアイツらが迷惑をかけてごめんなさい」
「え……」
訳もわからず謝罪された。
訊けば、夏樹は泰文の学生だった。杉橋達と直接の付き合いがあるわけではないが、同じ大学のため、些かの責任を感じているようだった。
ここへ来た経緯としては、どうやら元恋人がリコの友人で、彼女を通して我妻とも知り合い、本日コンパへ呼び出されたようである。我妻との接触は最近で、会う時は大抵リコも一緒の為、互いにまだ、連絡先の交換がなかったというわけだ……漸く、学務課まで巻き込んだコンパ直前のスッタモンダを理解する。
バイト先から駆けつけたと先ほど本人も言っていたが、コンパにデニムと白シャツという素っ気ない姿で登場した理由は、こうしたところにあるのだろう。しかし夏樹はそれがハンデにならないほどのスマートな美人だった。
そして、お詫びに奢りたいから付き合うようにと夏樹から言われた。こちらが助けられた立場なのに受けていいものかと迷ったが、コンパはどう見てもお開きで、夏樹はまだ来たばかりである。場所を変えてちゃんと飲み直したい気分なのかも知れないと察し、折半で付き合うと返答した。