海浜公園にあるホテルドルフィン地下の『ダルトビラ』は、それまで自分達が合コンで居座っていた学園口の『ラナペケーニャ』が霞んで消えるほど、何もかもが上質な空間だった……広さも店の雰囲気も、料理の味も。地中海に浮かぶイビサ島の城塞都市を店名に使っているだけあって、石造りの壁や重厚なアーチ門にライトアップの照明は固より、立体交差になっている通路や大砲のオブジェに至ってはテーマパークを思わせるほど遊び心に溢れている。それでいて多国籍料理は品揃いも質も文句なしだ。これで2500円からディナーが楽しめるのだから、大学生でも手が届く。もちろん、頻繁に足を運ぶというわけにはいかないが……。
「よく、こんなところ知ってるね……」
そもそも、このホテルドルフィンは一条グループ傘下で、グランドイースタン程とは言わないが、そこそこ高級なホテルチェーンである。レストラン街にはこの『ダルトビラ』の他に、一食4000円は取られる京豆腐料理の『壱条庵』が入っていて、最上階ラウンジとともに政財界の御用達だ。学生がおいそれと足を向けるような場所ではない。
「うちの社長が常連でね、打ち上げだ、飲み会だのなんだので、ときどき連れて来てもらうのよ」
聞けば夏樹は芸能事務所に所属しているプロのモデルだった。本日のバイトというのも、実は来月発売の雑誌を飾る、通信教育の広告撮影だったらしい。本人は広告ばっかりだと卑下していたが、充分大したものである。道理でどこかで見たことがある気がしたわけだ。
「それよりも、イケメン君達のことを聞かせなさいよ」
「だから、あの子達はそういうのじゃないから……」
ここへ来る途中も、夏樹はしきりに秋彦達の話を聞きたがった。どうやら彼女は、秋彦が声を掛けて来た時点で、ずっと店内からガラス扉越しに様子を窺っていたようだ。
「あんな奇跡に近いようなイケメン君と美形君が両方友達ですって、それで済むと思ってるの?」
「いや、済まないって言われても……」
確かに、峰は稀に見るイケメンだし、秋彦は大抵の美少女が霞むほどの美形だ。あの二人のどちらかが彼氏なら、さぞかし自慢できるだろうと自分も思うが、残念ながらどちらもそういう対象からは外れてしまっている……というより、先方で外れているというべきなのだろう。
振り返ってみると、秋彦と良い雰囲気になった瞬間もまるでなかったわけではない。ひょっとしたら自分で勝手に甘い思い出だと思い込んでいるだけかもしれないが、二人でお化け屋敷を回ったとき、ずっと秋彦と腕を絡めキャアキャアと悲鳴を上げながら歩いたことは、わりと気分が良かった。杉橋に触れられ嫌悪を感じた胸も、実はわざと秋彦に押し付けていた。その程度には秋彦へ、好感を抱いていたのだ。
今日も再会したときは、純粋に嬉しかった。だが……。
「二人とも相手がちゃんといるから……」
水色のスニーカー……性急に求められ、足元から弾け飛んだ片側のシューズが入り口まで転がり、服を脱ぐことさえもどかしそうな男に後ろから激しく奪われたのだろうか……個室の前で見てしまった決定的な光景が、まざまざと脳裏に、見ていない部分まで克明に再現された。
あれは、ほかならぬ我が美しき友人の彼らだったのだ。
「大丈夫、顔赤いけど……っていうか、これコーラよね?」
温くなった半分のグラスを揺らしながら、体調を気遣われる。
「平気。ちょっと反芻しただけだから」
「胸が大きいとやることまで牛みたいなのね。っていうか、なんだ二人とも彼女持ちかあ、そりゃあそうよねえ……チクショー」
夏樹が雄叫びを上げて、自分のモスコーミュールを呷った。
彼女に一条篤も友人だと言ったら、同じ程度どころか、それ以上の追及が展開されそうだと考え苦笑した。
そういえば、秋彦は一条篤と良い雰囲気だったことがある筈だ。
秋彦は性格こそ男っぽいが、恋愛対象は恐らく同性だろう。顔立ちもイケメンというよりも寧ろ美人と表現するほうがしっくりくる。彼の周りにいい男が集まるのは、多分にそういう理由があるのだろうと推測出来る。峰祥一や一条篤、……香坂慧生(こうさか えいせい)も、口の悪さはさておいても人形のような美少年だし、カレー屋の直江勇人(なおえ はやと)だって、外見的には可愛い部類だろう。全員が全員、恋愛目的というわけではないにしろ、秋彦を悪くは思っていない筈だ。直江の好みが秋彦だと本人が宣言したことは、忘れず昨年の日記に書いてあり何度も読み返した。
そして一条は、彼らと知り合った当時から秋彦に猛アタックを繰り返しており、一時期は良い雰囲気になっていた筈なのだ。二人はてっきり付き合っているものとカップル認定していたが、予想に反して一条は単身エスパニアへ渡ってしまった。見込み違いかと落胆したが、本日の事件から察するに、つまり峰の略奪愛が成立したということなのだろうか……。
「あのさぁ……薄笑みを浮かべているところ邪魔して悪いんだけど、さっきから携帯光っりっぱなしよ」
指摘を受けて鞄を確認すると、スマホの画面に我妻の名前と番号が表示されていた。電話である。
「本当だ……ごめん、ちょっと外すね」
「いてら〜」
夏樹に断り、鞄を抱えて一旦店外へ出た。場所を移動している間に電話は切れてしまい、どうしようかと迷ったが、急用の可能性もあるので、すぐにこちらから折り返す。
「もしもし、我妻?」
『ちょっと、リコちゃん遅いよ』
知らない女の声である。そして、頭にクエスチョンマークが10個ぐらい並んだ。
「あの、どちらさまです……?」
『……えっと、リコちゃんじゃないの?』
そっちこそ誰なのだと言いたかった。
『ちょっと勝手に電話触らないでよっ……あ、お兄さんビールもう一本!』
『あいよ、生中、たこわさ毎度あり〜』
我妻と居酒屋店員の威勢の良い掛け会いが、遠くに聞こえ通話が切れてしまう。
「なんで私の番号がリコちゃんの名前で登録されてんのよ」
つくづくリコに振り回される本日だった。急用どころか間違い電話と判明したので、ひとまず席へ引き返す。
「我妻でしょ、何だった?」
どうやら携帯の表示が夏樹にも見えていたようだ。
「うん、リコちゃん遅刻だって。……あ、コーラありがと」
テーブルの上に並んでいるコーラとモスコーミュールが新しくなっていた。電話中に夏樹がお替わりを注文してくれたらしい。
「それで良かったかどうかわかんないけど、勝手に注文した。……ハハハ、またリコすっぽかしたか。きっとデート中に彼氏と喧嘩して、ソッコー仲直りでもしたんでしょ。我妻振り回されすぎだって」
ハハハハと夏樹が笑う。
やはり見たては同じらしい。ただし、振り回されているのは私も変わらないという点だけが笑うに笑えない。
コーラを口に運ぶ。喉を伝い落ちる炭酸がひんやりとして気持ち良かった。
「和嶋さんはなんで彼氏と別れたの?」
「彼氏? そんなの元々いないけど?」
ストローを外し、グラスごとカクテルを口へ運びながら夏樹が言い切った。
またもや混乱する。
「えっと……、だってさっき別れた彼氏がリコちゃんの友達で、我妻にコンパへ誘われたとかなんとか……」
『ラナペケーニャ』で聞いたと記憶している話を夏樹本人へぶつけた。だからコンパに来ている泰文の面子を見て、その質の悪さに彼女は盛大に嘆きもした筈だ。我妻に引っ張ってこられた私とは違い、夏樹はそれなりに意志を持ってコンパへ参加しているのだと、自分は理解していたのだ。それとも夏樹は適当に話を合わせただけだったのだろうか……それならデニムの参加も納得がいく。
騙されたかもしれないと、夏樹を疑惑の目で見つめていると、彼女は何かを思い出したように顔を上げ、そしてハイハイと頷きを交えながらグラスをテーブルへ置き……おもむろに取りだした携帯を操作してこちらへ向けてきた。
「えっと……何?」
そこには二人の美しい少女が並んでいる……一人は美しいというより可愛らしいと表現したほうがいいだろうか。肩までのまっすぐな黒髪とミニスカートがよく似合う姿は、どこか江藤里子(えとう さとこ)を思い起こさせる。もう一人は夏樹本人である。二人は制服姿で、高校時代の写真だと理解した。
「元恋人」
「えっ……?」