『Mondschein 〜月光〜』
「今から約30年前のこと。野山と田園に囲まれたこの風光明媚な城陽(じょうよう)学院高等学校に、ひとりの若い音楽教師が就任した。
その日の放課後も彼は、いつものようにお気に入りの一曲であるベートーベンの『月光』を弾いていた。
はるか昔、彼と同じように音楽教師やっていたベートーベンが、教え子である14歳も年下の少女と恋に落ち、互いの身分の違いに苦しみつつも惹かれあったことがある。
美しき伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチアルディに捧げられた名曲中の名曲、それがピアノソナタ第14番。
この曲が『月光』と名づけられたのは、同じ時代の詩人レルシュタープが”あたかもスイスのルツェルン湖の月光にたゆたう小船のよう”と形容したのがきっかけと伝えられている。
だがベートーベン自身はこの曲をごくシンプルに『幻想曲風ソナタ』とだけ呼んだ。
ベートーベンほどとまでは言わないまでも、彼にもこの曲には甘くせつない思い出が詰まっている。
時は激動の70年代。
安保闘争の過熱するこの時代、髪を伸ばした学生たちは条約延長反対のスローガンを錦の御旗に街頭運動や授業放棄を行い、そして巷には平和を歌ったフォークソングが流れていた。
十年前に自民党が強行採決を行った新条約の延長には、若い彼にも言いたいところはあったが、かといって親の金で大学へ通う学生たちが授業にも出ず政治運動に明け暮れる姿には同調できなかった。
何より友人たちが好んで演奏したがるフォークソングが戴けない。
そんな彼を”ノンポリ”、”腰抜け”などと友人たちは罵ったが、彼はこれといった運動に参加もせず、バイトに身を費やし、時間を割いてはただ一人ピアノの前に座った。
そしていつものようにサークル室で『月光』を弾いていたある日の午後。
「きれいな曲」
そう言って目の前に現れたのが彼女だ。
ふたりは急速に恋へ落ちた。
彼女が学長の娘であることを知ったのは、出会ってから2週間後、三島由紀夫が割腹自殺を遂げた日のことだ。
対する彼は、学費稼ぎに奔走している一介の貧乏学生。
まるで絵に描いたような身分の違い。
ジュリエッタはベートーベンを捨て、あっさりと高貴な伯爵に嫁いでしまった。
絶望したベートーベンは、保養地のハイリゲンシュタットで遺書まで認めている。
所詮ジュリエッタなど、名曲を献呈するに値しない女だということに、ベートーベンは早く気づくべきだったのだ。
そして目の前に現れたこの情熱的な令嬢は女だてらに自分からプロポーズをしたうえ、「お金も肩書きもほしくない。駆け落ちしてでもあなたから放れない」などと宣う。
彼女はお粗末なジュリエッタとは違う。
彼はプロポーズを受けた。
来年の12月25日、23回目の彼女の誕生日である聖なる夜、ふたりだけの愛を教会で誓い合おうと約束した。
そして密かに彼女の婚約者となった彼は採用試験に合格し、この城陽学院高等学校で正式に教師となった。
幸せに満ちた3つの季節が通り過ぎる。
来月には晴れて二人の挙式が待っていた。
今ならば一人の社会人として、彼女を迎える自信も準備も備わっている。
学長の前で結婚の二文字を口にする勇気さえ、手にしているような気がした。
祝福されて結婚できるに越したことはないのだ。
もちろん反対されることは目に見えている。
むしろそちらの可能性しか、今でも考えられない。
しかしそうなったときには奪い取るだけの度胸も、彼には身についていた。
すべては、彼女のあのプロポーズが彼を支えてくれているのだ。
明日の午後、学長の家に行こう。
そして学長の前で、僕から改めて彼女にプロポーズをするのだ。
二人が大学のサークル室で運命の恋へ落ちてから丸2年。
機は熟していた。
その先にポッカリと口を開けて待ち構える真の暗闇に、彼が気が付くはずもなかった。
運命とは気まぐれなもの。
彼はとつぜん天に見放された。あまりにあっけなく、残酷に・・・。
大きな地震がこの地を襲ったのは晩秋のこの季節。
11月13日午後4時20分。
激しく大地を揺るがす天災に立っていることさえ困難な状況で、彼はピアノの前に座り、鍵盤から流れ落ちる己の血を眺めていた。
左手の小指と薬指、そして右手の小指が動かない。
蓋が落ちた拍子に指の神経が切られたのだ。
『月光』が弾けない。彼女との思い出の曲が・・・。
壁がバラバラと崩れ落ち、ピアノがガクンと傾いだ。
地震は予想を超えて遥かに大きなものだった。
廊下を逃げ惑う生徒たちの悲鳴。
ここにいては死んでしまうだろう。
慌てて椅子から立ち上がった彼は、ピアノに背を向け戸口に向かおうとしていた。
それは一瞬の出来事だった。
振動で揺れたアプライトピアノは背後から彼を襲い、そして飲み込んだ。
約一分ほどの揺れではあったが地震の爪痕は凄まじく、城陽学院高等学校は東館の校舎を半壊状態にされていた。
被害は主に一階に集中していたが、化学実験が行われていた第2理科実験室から火の手があがり、隣の音楽室にいた教師が逃げ遅れて命を落とした。
死因は一酸化炭素中毒と言われている。
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