奇妙な事件はまず半年後に起こった。
臨採の音楽教師が放課後、コーラス部の顧問をしていたときのこと。
練習の合間に生徒にせがまれて、彼はピアノで一曲披露することになった。
県のコンクールを二週間後に控え、このところ毎朝のような早朝練習と、夜は7時近くまで特訓というハードな日々が続いている。
少しぐらいのお遊びは、却って生徒の緊張を解きほぐし、ムード作りになるかもしれない。
正直に言うと、彼もメンデルスゾーンばかり演奏するのは、少し飽きていた。
さっそくリクエストを募ったら、返ってくる返事は見事に歌謡曲ばかり。
やれやれ・・・。
あきらめて鍵盤に向かい、一番人気のトワ・エ・モアを弾こうとした瞬間、
「月光」
誰かが言った。
彼は咄嗟に選曲を変える。
しばらくの間美しいピアノの音色が音楽室の空気を満たしてくれた。
約6分程度の第一楽章が終了し、生徒たちの間から拍手と歓声が沸き起こった。
彼はホッと胸を撫で下ろす。
この子達にも聞く耳はあるんじゃないか・・・。
名曲に勝る感動はない。
その信条を胸に、名曲を提供する側の人間としてこの先の人生を歩もうとしていた教師の心が、ほんの少しの寂寥を意識した。
一学期が終われば彼女達ともお別れだ。
鍵盤からゆっくりと指を上げかけた彼の横顔は、どこか寂しげだったかもしれない。
だがその瞬間、信じられないような悲劇が起こった。
誰も触っていないピアノの重たい木製の蓋が、突如として教師の手を襲い、彼は激痛に顔を歪めた。
人のものとは思えぬ怖ろしい叫びが生徒たちの鼓膜を震わせ、その悲鳴はグラウンドにさえも轟いていた。
黒塗りの木材の下敷きとなって、白い鍵盤から垂れ下がる幾筋もの赤い血の流れ。
秋からは有名楽団のピアノ演奏者として、正式にその席を用意されていた彼は、三本の指の自由を失い、職業演奏家としての華々しい前途はおろか、ピアノに触れることさえ出来なくなっていた。
絶望した男は一週間後に首を吊り、みずからの命を絶ってしまう。
さらにそれから1年後。
音大ピアノ科を志望していたある女子生徒が放課後の音楽室で過去の課題曲を弾いていた。
アダージョ・ソステヌート・・・じゅうぶんに音の長さを保って緩やかに、と指定された70小節程度の調べを、少女のしなやかな指先は弾き慣れた様に再現してゆく。
曲はクレッシェンドに盛り上がり、そしてデクレッシェンドからピアニッシモへと収束する。
最後は長く余韻を残すフェルマータの和音。
ピアニッシモを保ちつつ、けしてうるさく響くことのない。
マイナーコードの余韻が残る中、彼女は静かに指をあげる。
暗譜は完璧にできている。
彼女にとってはかなり易しい部類の曲だったが、弾けば弾くほど心に響く己の音へ近付いてゆく、その感覚が好きだった。
もう一度だけ弾いて、終わりにしよう。
そうしたら、課題のシューベルトへ戻る。
自分に言い聞かせ、再び鍵盤へ指を下ろす。
彼女は序章のカンデンツを奏で始めた。
センプレピアニッシモ・・・つねに控え目な音で。
静寂なる湖上に青白い月光がキラキラと流れるがごとく・・・。
そのとき突然、原因不明の発作が彼女を襲った。
鍵盤を叩きつけるように鳴り響くフォルテッシモの不協和音。
隣の第二理科実験室から化学部顧問の教師が駆けつける。
苦しげに顔を歪めている女子生徒は、自分で喉を掻き毟り、皮膚が荒れて血に染まっていた。
教師は喉から手を離れさせて襟元を開放し、気道を確保すると、楽な姿勢で床に横たえた。
見る見る顔色が土気色に変わりだし、動悸が激しくなってゆく。
教室を覗いていた生徒に命じて、救急車を呼びに行かせた。
彼女は病院へ搬送されたが、その夜のうちにあっけなく死亡。
そのとき彼女が弾いていた曲は、ベートーベンの『月光』だった。」
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