風光明媚な城陽学院高等学校の歴史はけして浅くない。
創立は昭和初期に遡り、その昔は名門女学校として良家の子女ばかりがお抱え運転手付きで通っていたという。
時代は変わり、戦後の男女平等や女性解放が時代の潮流となるにつれ、その門戸は男子にも開かれた。
名称も城陽女学院から城陽学院となり、共学普通校として新たな歴史を歩き出す。
終戦直後のベビーブーム世代が入学するようになった昭和30年代後半には、敷地が拡張され、中等部と高等部が分かれて別の場所へ移転。
校門のプレートも城陽学院高等学校と名称が刻まれる。
以後、何度かの改装工事を重ねて校舎も木造から鉄筋へ。
さらに改築、改装の結果、コの字型校舎と講堂を渡り廊下で結ぶ現在の校舎が建てられた。
厳密に言って城陽学院高等学校の独立した歴史は昭和30年代からということになるが、その当時の名残として残されている唯一のメモリアルが、講堂脇の国有林前に建っている旧校舎・・・昔の東館である。
昭和40年代にこの地を襲ったらしい局地的な大地震で、西館は全壊。
音楽室が入っていた東館も、その1階部分が目茶苦茶に崩れ落ちたという悲劇的な被害があったにもかかわらず、そのあとに訪れた不景気が原因でまともな修復工事が行えなかった。
それはまるで亡霊のような存在。
その後の円高好景気で父兄からの寄付金が大幅に増えて、さらに敷地を拡張。
新校舎が新たに建設された。
そしてほとんどの教室が鉄筋4階建てコの字型の新校舎へ移動する中、木造校舎は実質幽霊校舎となってしまう。
またの名をバブルの落とし子。

僕らは南向きの旧昇降口に立ち、重いガラス扉に手をかけた。
錆付いたレールの上で耳障りな音を立てながら、横開きの格子戸がガラガラと開く。
プンと匂う古い木材の香り。
「さすがに夜ともなれば雰囲気満点だな」
天井からぶら下がる裸電球を見つめながら、篤が呟いた。
狭苦しい昇降口の片側に二つ並んだ下駄箱が、寂しく木枠だけを見せている。
足元に置かれた敷き板の上は、その昔、我れ先にと上履きへ履き替える生徒たちでいっぱいになっていたのだろう。
釘の弛んだ敷き板をギシギシと踏みしめながら、突き当りの見えない廊下へ足を運ぶ。
地面のコンクリートより20センチほど高い位置から始まっている黒ずんだ廊下は、完全にワックスが剥がれて、踏みしめるたびに床がミシッと沈んだ。
「音楽室は3階にあったらしいぜ」
窓越しに見える国有林が暗い影を落とす突き当たりの角を、右に折れながら篤が言った。
「本当に音楽室まで行く気なのかい」
言った瞬間、二、三歩先を歩いていた篤が振り返る。
「なんだアキ、下見の段階からもう怖気づいたっていうのか」
嘲笑を含んだ篤の声。
顔は見えないが、篤が笑っていることぐらい空気で判る。
「べつにそういうわけじゃないよ。・・・ただあんまりウロウロしていると、先生に見つかって怒られないとも限らないじゃないか。さっき宮下さんに、ここへ入るところを見られたわけだし」
「宮下さんは告げ口なんかしないよ。彼は教師の犬ってわけじゃないんだから」
階段下のホールで、ようやく篤の表情が露になった。
十五段ほどある細長い階段の上がり口の壁に、当時としてはかなり洒落たデザインであったろうと思われるガラス細工の黄色い照明がかかっており、目線よりだいぶ上の高さから、段差の大きい足元を煌々と明るく照らしていた。
いつのまにか篤がつけたのだろうか。
この照明はきっと、地震のあとの改装工事で取り付けられたものなのだろう。
角の磨り減った階段を一歩一歩踏みしめて3階の踊り場にたどり着く。
廃屋に近かった1階と較べて、2階も3階も保存状態は格段に良かった。
足元の廊下もそれほど痛みはなく、ワックスも綺麗に残っている。
「工具室や第2理科室といった現在も使用されている特別室が、まとめて1階にあるせいかなぁ」
明るい照明が照らしだす3階の廊下を歩きながら篤が言った。
人の出入りがない分、傷みもそれほどないということだろうか。
片側に6部屋並んでいる教室は。どの部屋も錠が下りて立ち入り不可能であったが、曇りガラスの隙間から覗き込んだ室内に、僕らは改めて感心していた。
整然と並べられた机や椅子には、埃の一つも乗っておらず、明日からでも授業可能なように思われたのだ。
「きっと宮下さんが、毎日掃除してくれているんだよ」
それが彼の仕事のためか、それとも意志で行っていることかは判らない。
しかしおそらくはここで授業が行われていた当時を知る宮下氏には、積もる思い出が少なくはないはずだ。
「あれがたぶん、旧音楽室だろう」
篤がつきあたりの扉をさして言う。
両開きになっている焦げ茶色の分厚い木の扉。
この階に残されている教室はほとんどが普通教室で、特別教室は隣の旧第2理科実験室とここだけだった。
「開いてるかなぁ・・・」
扉の1メートル手前に立って、僕らは互いの顔色を伺った。
開いてたら・・・どうしよう。
「開けるぞ」
腰より低い位置にある金属の取っ手に手をかけて、篤が僕に予告する。
この中にあの呪われたアプライトピアノがあるのだろうか・・・・。
「開けるぞ」
「今聞いたよ」
緊張した面持ちで、篤は取っ手にかける右手に力を入れた。
僕はゴクリと唾を飲み込む。
骨ばった大きな右手の筋肉がピクリと動き、その瞬間金具がガチャリと音を立てる。
開いてる・・・・・・!
僕らはハッと息を呑んだ。
「こんなところで何をしているんだ」
背後で大きな声がして、僕らは思わずドアから離れた。
僅かに開いた入り口の隙間が、その拍子にバタンと閉じられる。
一瞬だけ室内の空気が流れ出し、焦げたような悪臭が嗅覚を刺激した。
「ここは君たちの来るようなところじゃないだろう」
5メートルほど前方から少し足を引きずって歩く小柄な姿に、僕は見覚えがあった。
茶色いチェックのジャケットにネクタイを締めていない白いワイシャツと、灰色のスラックス。
それは月曜の昼休み、中庭で祥一と弁当を食べていたときに渡り廊下で見かけた男だった。
そういえばあのときも彼は、この旧校舎へ向かっていたはず。
「さっさと帰りたまえ!」
青白い額に血管を浮き上がらせながら彼が一喝した瞬間、ぼくらは飛び上がって階段を駆け下りた。


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