「お前はアホか」
俺はその額を指先で弾いてやった。
「痛いよ、秋彦・・・デコピンしないでよ」
情けない声を出しながら、篤が自分の眉間を掌で押さえている。
街灯の眩しい明かりが、シルバーの指輪を一瞬白く光らせた。
「着の身着のままで出てきちまって、小銭の一つもないのに、これからどうしろって言うんだよ」
「えっ、だって学校から出ようって言い出したのは秋彦・・・」
「うるせーんだよ、説得する自信があったんなら止めろよな、未来の社長さんよぉ」
こう見えて、篤は世界を股に掛ける一条建設社長の一人息子だ。
次期社長の椅子は約束されている。
パニックを起こしたシスター一人説得出来ないでどうする。
「ああ、いやぁ・・・ええと・・・どこからツッコんだら・・・」
「しかもこんな所まで歩いて来ちまって、これからどうしたらいいんだよ、なんで真夜中に海なんだ。入水自殺でもしろってか?」
城南女子学園を出て臨海公園駅の踏切で学園都市線を横切り、駅前繁華街を通過してまっすぐバス通りを突き進み、海浜公園まで歩いてきた。
まあべつに篤がひっぱって来たわけでもないのだが、喋りながらなんとなく歩いている間に、気が付いたらここに着いていたのだ。
そういえば前にも何度か篤と二人で、海浜公園へ来たことがある。
ただでさえ、この辺りでは一番有名なデートスポットなのだが、ここは朝焼けが特に美しく、明け方になると夜を共に過ごしたカップルが、季節を問わず、あちこちからちらほらと、車やバスに乗って、ここへ集まってくるのだ。
もちろん、前に来た時には俺達もちゃんとバスに乗って、朝焼けを見るためにやって来た。
逆に夜景は今ひとつなので、灯台と街灯ぐらいしか見えない真夜中は、ほとんど人気がないようだ。
お陰で今は、打ち寄せる波と、どこからともなく聞こえてくる、海鳥の声ぐらいしか辺りに音がない。
たぶん本当に二人きりなのかも知れない。
「僕ならいつでも、秋彦と心中してもいいけど・・・」
「んなこと言ってねーよっ、自虐ギャグだよっ、わかりやがれっ、つうか、べつに財布置いてきてジュース飲めねぇぐらいで、そこまで悲感するわけねーだろ!」
よくよく考えたら、もの凄いことを言われていたのだが、・・・この時はツッコむことで頭がいっぱいだった。
ちなみに俺には、趣味でしょっちゅう俺を心中に誘ってくる、性質の悪い連れが一人いるのだが、もちろん篤にそんな趣味はない。
「そ、そうだね・・・いやぁ、本当難しいね・・・久々だったとはいえ、僕もまだまだだ」
意味不明の「まだまだ」を聞いた途端、俺は力が抜けてハッと短く息を吐くと、もう一度ベンチの背もたれに背中を預けて、天を仰ぐ。
「・・・ま、こういうのもたまにはいいか」
天の川の周りにひときわ明るい一等星を3つ見つけて、それを線で辿ってみた。
確かそのうちの二つが、織女星と牽牛星だったと思うが、果たしてどれがどれだっただろうか。
デートスポットとして夜は今ひとつと言ったばかりだが、照明だらけの港と違って明かりが少ないお陰で見えてくる物もある。
天の川を渡り、年に一度だけ恋人と出会える、二つの星・・・どうせ見るなら、こっちの方がいいだろう。
「綺麗だね」
不意に右肩が重くなり、篤も同じようにベンチへ深く腰掛けて、いくらかこちらへ体重を預けてきたことに気が付く。
「そうだな。・・・日ごろ星なんか見ねぇから、夏の夜空がこんなにキラキラしてるなんて初めて知ったよ」
「そう、だね・・・・」
一応肯定はしながらも、言葉の最後に苦笑するような響きが混じっていた。
篤はいつも、自分が言った言葉を俺が正確に受け取っていないと、こうやって苦笑を漏らし、それでもその訂正をしないから、俺は何を間違えたのか、結局わからないままに終わってしまう。
つまり、俺はまた、何か意味を取り違えてしまったのだろう。
まあ、大事なことなら、絶対に誤魔化す奴じゃないから、大した話じゃないのだろうけれど。
ふと足の付け根あたりに触れられて、俺は短く息を飲む。
「・・・っ、てめぇ何してんだよ・・・」
払おうとした手を反対側の手で捕えられ、篤の悪戯な指先は横糸の隙間から遠慮なく生地の下へ潜り込んで、敏感な皮膚へ直接触れて来た。
「ここ・・・ずっと気になっていたんだけど、下は履いてないの?」
「・・・ん、・・・んなわけねぇだろ。やめろって・・・」
俺が今履いているジーンズは、腿ともう少し上の辺りに、左右1カ所ずつダメージ加工がある。
一つが結構微妙な部分にあったが、買ったときには気にならなかったそのダメージが、何度か洗濯をしているうちに、段々横糸が切れてきて、下が透けて見えるようになったのだ。
「ということは、ひょっとして際どいビキニかTバック? でも、秋彦そんなの持っていたっけ。見たことないけど」
声の感じで篤が段々調子に乗り始めたことがわかった。
むかつくが、ここで無下に抵抗をすることは躊躇われた。
なんとなく、篤の声に棘を感じるからだ。
「ティ・・・、Tバックなんか履くわけねぇだろ、ビキニ・・・だよ。新しく買ったに決まってんだろ・・・」
「へぇ、わざわざ?」
「じゃねぇと、これ履けねぇじゃん・・・パンツよりジーンズのが高いんだから、優先度から言えば当然だろ」
古着屋で買ったとはいえ、一応リーバイス501のヴィンテージだ。
綺麗な縦落ちと程良いダメージ感が、俺は結構気に入っている・・・まあ下着に困るのは確かなのだが。
「なるほどね。誰に見せたかったのやら」
「てめぇ、どういう意味だよ」
これにはさすがにムカッと来た。
「今日は女の子達もたくさんいたし、直江も・・・峰もいたしね」
「お前、言いがかりも大概にっ・・・・やっ、・・・指、突っ込・・・」
言い返そうとした途端、横糸の間から侵入してきた篤の長い人差し指が、するりと内側へ滑って来て、下着の線に触れた。
「なるほど・・・確かに履いてはいるみたいだね」
「お前っ・・・やめろよな。糸切れちまうだろ・・・はっ、んんっ・・」
「峰はここに触れたのかな」
柔らかい皮膚の表面を指先でゆっくりとなぞられ、肌がビクビクと震えた。
だが、言われた言葉は、迂闊に聞き流せる内容じゃなかった。