「この先がゲストルームです。一番手前の向かい合わせに並んでいる、扉に花が付いた二部屋をご使用くださるかしら。こちらがそれぞれの鍵です」
来客用の部屋は10畳程度の洋室であり、とくに使用者の人数制限に決まりはないが、通常はベッドを二つ入れてツインルームとして使われている。
全部で8部屋あるが、来客時にはドアノブへドライフラワーのコサージュを掛けて、使用中のサインを示すルールになっている。
これにはゲストの誘導以外の目的もある。
自室以外の寮内の清掃も、当然ながら寮生による当番制だ。
ゲストルームの使用は厨房のホワイトボードに書き出されているし、事務室の鍵掛けを見てもわかる筈なのだが、それでも中にはそそっかしい寮生がいるのだ。
これは万が一の、そんな遭遇を避ける意味もある。
まあ、今回は夏休み中で殆どの寮生が出払っているため、その必要はないのだが、ルールはルールだ。
向かって左手のカモミールの花が付いた鍵を、一条さんが受け取った。
「どうもありがとう。じゃあ秋彦、僕らはこっちを使わせてもらおうよ」
「おう」
一条さんに促されて原田さんがカモミールの花が掛けてある扉を開けようとしたところで、買い物袋を提げていた反対の手に、別の男性の手が掛かった。
「原田、お前の荷物が俺の鞄に一部入っているんだが、それはどうする気だ」
「ああ、忘れてた・・・花火持って持って貰ってたんだよな。あとで取りにいくわ」
どうやら、峰さんのアルマーニの景観を破壊していた原因は、妹さんの我儘ではなかったようである。
「面倒だから俺と相部屋にしたらいいだろ」
「えっ・・・あ、いやでもそれは・・・」
原田さんがなぜか一条さんの顔色をうかがった。
一条さんは素敵な笑みを絶やさぬまま原田さんを見つめている。
目は笑っていないが。
「お兄ちゃんは私と一緒でしょ?」
峰さんの腕にぶらさがっていたパフスリーブワンピースが、小首を傾げて兄の顔を覗きこんだ。
「えっ・・・じゃあ、俺どうなんの? 女子の部屋?」
ここで追い返される危険性を考えないのは、呑気なカレー屋さん。
一応ゲストルームは他に6部屋余っているのだが、ただでさえ寮生の親族以外の男性を宿泊させるのである。
カレー屋さんの為に、これ以上寮則を破るわけにはいかない。
「御気の毒ですが・・・」
「んなわけないでしょ、直江君!」
会合の幹事たるあたくしが責任を持ってこの場を収めようとしたところで、ツッコミ担当の江藤里子がテンション高く、言葉を被せてその役目を果たしてきた。
「あら、庇いますの・・・」
「まりあちゃん、今日はダメよ。こっちに来なさい」
江藤里子がまりあさんの手首を掴んで窘める。
峰さんの陰に隠れるようにしていた少女は、野蛮人との接触に慣れていない為か、今にも泣き出しそうである。
「ええっと、山崎さんは一体さっき何を言おうとしていたのかな・・・」
「お聞きになりたい?」
「べつに、そういうわけじゃないんだけど・・・」
カレー屋さんは結構優柔不断な殿方のようだった。
「荷物を置いてから、すぐに遊びに来たらいいでしょ? 一緒に来てくれたら、学校でのお兄ちゃんの話を教えてあげるから」
「どうしてあなたが兄の事を知っているんですか?」
「あら・・・」
江藤さんの言葉の何が気に触ったのか、突然少女が反撃を開始した。
お兄さんに甘えているだけの人見知りな女の子かと思えば、この娘、わりと気が強そうである。
「え、ああ・・・それは、まあクラスメイトだし」
「あなたに教えてもらわなくても、兄のことはあたしの方がよく知っていますから」
「いや、それはそうなんだけど・・・」
なるほど・・・どうやら峰さんに関する不測の情報が、彼女の地雷となるようだ。
「まりあ、あとで迎えに行くから、お姉さんと一緒に行きなさい」
「お兄ちゃん・・・」
「まりあは我儘を言って俺の友達を困らせるような悪い子じゃないだろ」
峰さんが少し背を屈めて、まりあさんの目を覗きこみながら、小さな頭を撫でた。
「すぐに来てくれる?」
「ああ、絶対に行く」
まりあさんは上目づかいに峰さんを見上げている。
その頬は熟れた桃のようであり、潤んだ大きな瞳は、今にも零れ落ちそうに、兄を映して揺らめいていた。
なんですの、この兄妹は一体・・・。
「じゃあ怖いお姉さんと一緒に行くね」
「怖・・・この馬鹿っ!」
まりあさんが言った瞬間に原田さんが吹き出し、0.3秒差で江藤さんが手に持っている大きな籠バッグを原田さんに叩きつけた。
まりあさんの評価が早くも証明された。
「じゃあ秋彦、僕らもさっさと行くよ」
「背中が痛ぇ・・・何入れてやがんだアイツ」
「僕がマッサージしてあげるよ」
待ちくたびれていたであろう、一条さんが左手で原田さんの右手を取って、ゲストルームへ入って行く。
繋がれた二人の手を良く見ると、全然違うと思っていた二つのピンキーリングが、同じようなデザインであることに、改めて気が付いた。
「じゃあ、峰は俺と一緒ってことで・・・ひぃっ! な、なんで睨むの!???」
その後、我儘なお兄ちゃんっ娘を怖いお姉さんに押しつけたあと、ようやくあたくしは今宵の寝床である、3階の佐伯と小森の部屋へ向うべく、階段を上がった。
「雪子、今日の君は一段と素敵だね」
いつの間にか隣を歩いていた人物が、唐突に肩へ手を掛ける。
夏休みということで私服のノースリーブを着ていたあたくしは、直に素肌へ触れられていた。
なんだか急に辺り一帯へ不穏な空気が流れ始めた。
「お誉めに預かり、光栄ですわ・・・」
肩の筋肉をほぐす振りをして、ついでに厚かましい手を払い落す。
「制服も素敵だが、そのワンピースも、君の長い真っ直ぐな黒髪と実によく合っている・・・・雪子は本当に清楚な白がよく似合うね。肩が凝っているのかい? 私が揉んでやろう」
「大丈夫です・・・!」
大きな手でがっしりと両肩を掴まれて、なりふり構わず手を振り払った。
「そうかい・・・このところ忙しく合宿準備に追われていたから、きっと疲れているんだね、可哀相に。その細い腰など、今にも折れてしまいそうで、守ってやりたくなるよ」
せっかく肩から払いのけた手が、今度はあろうことか下へおりてしまい、正面から腰を引き寄せられた。
「せ、先輩っ・・・あの、お戯れはお止しになって」
あたくしは正面から間近に本城先輩と向き合っている。
寮生はすでに帰省しており、3階はしんと静まり返っていた。
これはかなり危険な状態だ。
「戯れてなんかいないよ、雪子・・・私はいつでも傍にいて君を守りたいと思っている」
「何を仰っていますの・・・手をお放しください。間もなく皆が厨房に集まりますから、あたくしも夕餉の準備に伺いませんと」
「実に残念だ。私はこの後、あの子達と会いに行かなければならない」
あの子たち、と先輩が呼んでいるのは、大奥こと、百合寮のレズ連中。
ようするに先輩のファンクラブであり、この寮を百合寮たらしめんとしている元凶のことだ。
「あら、またファンの方たちとお茶会がありますの? それなら尚の事、お急ぎになりませんと・・・あたくしも、そろそろ時間が」
「雪子、私の部屋に来ないかい?」
「またご冗談を・・・あたくしは佐伯と小森の部屋へ泊めて頂くことになっていますので、伺う理由がありません。今もあの子達が、簡易ベッドの準備をしてくれている筈ですわ」
身を少し捩りつつ、なんとか先輩から距離をとろうとするが、後ろはすぐに壁だった。
横へ逃げないといけない。
「つれない事を言わないでくれ。少しぐらいいいじゃないか・・・なかなかこうして二人きりになれる機会などないものだよ。殊に4月からは、私も寂しい生活を送っている」
先輩も両手であたくしの身体をぐいぐいと引き寄せ、しつこく食い下がってくる。
二人きりになりたくはないし、4月からは意味不明の恋文や待ち伏せ攻撃を受ける機会が少なくなって安心していたぐらいだ。
・・・そこまで考えて嫌な仮説に辿り着いた。
まさかと思うが、先輩が未だに百合寮へ潜り込んでいる理由・・・・こ、これはなんとしても駆除しないと。
「ですけど、皆さんお耳の早い方ばかりですわよ。せっかく先輩を好いていらっしゃるのに、御気を悪くされては気の毒ですわ」
横移動を繰り返し、ようやく佐伯達の部屋まで辿り着いたというのに、あたくしはさらにその扉の前を通り過ぎようとしていた。
「美しいばかりか君は本当に心が優しい子だね。自分のことより他人をまず気遣うその思いやりの深さに、私は深く心を打たれたよ・・・雪子、私の部屋はもう少し先だ。遠慮はいらないよ」
咄嗟にドアノブへ手をかけて足を踏ん張り、引っ張られる手を力いっぱい引き返す。
ここは負けるわけにはいかない。
「い、いえ・・・結構ですわ」
「二人で愛を語り合おう」
なんて馬鹿力・・・!
古傷の肘がキリキリと痛んだ・・・限界が近い。
「お止めに・・・・きゃあっ!」
「さあこの胸に・・・」
とうとうドアノブから手が離れてしまった。
あたくしの身体は先輩の広い胸に抱きとめられ、もはやこれまでかと諦めかけた次の瞬間、後ろで中からドアが開けられた。
「やっと開いた・・・・って、何やってんの、山崎こんなところで・・・あら、先輩」
間一髪。
佐伯が開けてくれた扉の向こうへすぐに避難したあたくしは、先輩へ一礼すると、茫然としている彼女の目の前で、遠慮なく扉をピシャリと閉める。
そして佐伯と小森へ向き直り。
「さあ、夕餉の支度へ向かいますわよ」
何事もなかったように二人を誘った。
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