「これは突然東京で暮らすことになった、ある男性の話。
当時、彼はお金がなく、家賃の高い東京で、なかなかいい物件が見つからなくて、困っていたの。
何軒目かに訪れた不動産屋の店主は、そんな彼に同情を示してくれたんだけど、それでもなかなか紹介まではしそうにない。
『お願いします! どんな部屋でもいいんです、本当に困ってるんです!』
彼はそう言って何度も頭を下げた。
すると不動産屋がとうとう、
『ひとつだけ、安いアパートが、あるにはあるんだけどねぇ・・・』
そう言って、ようやく部屋を紹介してもらえることになったの。
紹介されたアパートは、駅からそう遠くもなく、古いながらも、なかなか良さそうな物件だった。
部屋は1階にある6帖二間で、しっかりとした台所と風呂まで付いて、家賃はなんと1万円。
もちろん彼は二つ返事で入居を決めた。
だが、その晩から彼は毎夜魘されるようになったの。
元々、霊感が強い彼は何日かをかけて、風呂場に・・・いえ、風呂場の壁の向こう側に原因があることに気が付いた。
彼はその壁をノックしてみる。
すると、なんとなく音が響いていることに気が付いたの。
そういえば、外から見るとこの部屋はもっと広くないといけないのに、部屋の中はそうでもなく、少しばかり変形しているようにも感じる。
そう・・・ちょうどこの風呂場の向こう側に、風呂場と同じだけの広さがないと、形が合わない。
そもそも部屋の真ん中に風呂がある配置は、少し不自然じゃないか?
そして、この壁の向こうは、一体どうなっているのだろうか。
気になった彼は、また不動産屋へ行き、自分が毎晩魘されて金縛りに遭うこと、そして自分の部屋の形が不自然であることを話し、何か隠していることはないかと追及をするけど、誤魔化されるばかり。
しかたなく彼は部屋へ引き返し、そのまま、また何日かを過ごした。
けれど、今度は女のすすり泣くような声が聞こえたり、自分以外に誰も入らない筈の風呂場で、細く長い髪の毛を見つけるようになってしまう。
眠れない夜が何日も続き、彼は段々とノイローゼ気味になっていった。
すべてはこの壁のせい・・・この壁が自分を苦しめている。
そう思った彼は、ある晩とうとう壁を壊すことに決めた。
大工道具を持って風呂場へ入り、思い切って壁へ打ちつける。
モルタルがバラバラと崩れ落ち、あっさりとそこへ穴が空いた。
彼は穴からその奥を覗きこむ。
思っていた以上に薄かった壁の向こうは空洞で・・・いや違う、何かが見えた。
彼は再び道具を構え、さらに壁を壊していった。
穴はどんどんと大きくなり、ようやくその向こうが見えてくる・・・・壁の向こうには小さな部屋があった・・・いや、風呂釜だ。
でも何故・・・どうしてこんなところに風呂釜が、もう一つあるのだろうか?
徐々に穴を大きくしてゆき、そこがもう一つの風呂場であることに、彼は気が付いた。
そう、この部屋には風呂場が二つあった・・・いや、そうじゃないだろう。
つまり、もともとこの部屋は二つに分かれていたのだ。
だが壁を取り去って二間続きの一つの部屋にして、風呂場を片方封じ込めた・・・だが、何故そんなことをした?
元風呂場だった同じような目の前のこの空間・・・あそこにある黒い染みはなんだろう。
ここにも、・・・いや、あちこちに何かを散らしたような染みが無数に付いている。
これは・・・人間の血?
そこまで考えついたところで、彼はこれまで経験したこともないほどの、猛烈な寒気に襲われた。
一体、ここで何があったのだ!?
・・・壁を三分の一ほどまで壊してしまった所で、工具を持ったまま部屋を飛び出すと、彼はもう一度不動産屋の扉を叩いた。
『何なんですか、あれは一体!』
彼は壁を壊してしまったことを打ち明け、そこで目にした光景を全て話す。
『あ〜、見ちゃいましたか』
のほほんとそう言って、大きく溜息を吐くと、不動産屋は真相を話し始めた。
それは彼が入居する1年前のこと。
もともとその部屋には、一人の若い女性が住んでいた。
ある日その女性は長く付き合っていた恋人と別れ、その夜風呂場で手首を切って自殺した。
翌朝、女性は遺体で発見され、すぐに遺品と一緒に遺族へ引き取られたが、遺族にさえ見せられないほど風呂場の光景は凄まじかった。
壁だけでなく天井にさえ飛び散っていた無数の血痕。
恐らくなかなか死にきれず、何度も刃物を振るっては、もがき苦しんだのだろう。
風呂釜は血の色だった湯水ですっかり赤く染まり、洗い場にさえ、排水溝へ向かって、赤い流れがべったりとこびり付いていた。
不動産屋はすぐに風呂釜を入れ替えて浴室の改修工事を行ったが、どういうわけか何度塗り直そうと、飛び散った血痕のような染みだけは次から次へと浮かび上がってくる。
それも壁や天井へ数限りなく。
3度目の塗り直しに失敗したところで、不動産屋はとうとうその部屋を諦めると、風呂場そのものを壁で封鎖し、元々空き部屋だった隣の部屋との壁を抜いて二間続きにして、家賃を大幅に下げ、入居者を募集した。
そこへ入ってきたのが、彼だったの」
佐伯が話を終えて、一同を見渡す。
しんと静まり返っていたダイニング。
久々に聞く佐伯のなかなか強烈な怪談に、慣れているあたくしや小森でさえも、暫く口が聞けなかった。
江藤さんなど、完全に固まっている。
目の前の蝋燭は、とっくに燃え尽きて、ダイニングは窓から差し込む月明かりだけが頼りの、ほぼ暗闇だった。
こんな話を聞かされるなら、電気を消すんじゃなかった。
「お・・・俺、トイレに・・・」
カレー屋さんが実に微妙な笑顔で立ち上がりながら、峰さんの様子を窺う。
「ああ、気を付けてな」
「そ、そんな・・・峰ぇ・・・」
その瞬間、闇を切り裂くような鋭い音が聞こえ、ダイニングに戦慄が走る。
「い・・・今の、何・・・!?」
佐伯があたくしの手を握った。
自分でこの重苦しい空間を作っておいて、何をいまさら。
「何って、どう聞いても女の悲鳴・・・」
風呂場で自殺した女性が化けて出て来た・・・・さすがにそこまでは思わないが、あの話の後でこの展開は怖すぎる。
「きゃー、言わないで、言わないで!」
江藤さんも、机越しにもう片方の手を握ってきた。
「初音様・・・みく、怖いですぅ〜」
あまり怖くなさそうな様子の小森が、この機に乗じて佐伯の背中にしがみついた。
「大丈夫さ、君達。私が付いているからね。さあ雪子もおいで」
どさくさに紛れて本城先輩までこちらへやって来る。
平気だと言うなら、様子を見て行ってくれたらいいのに。
「じゃあ、俺が見て来るわ」
「峰君・・・」
峰さんが立ち上がる。
「じゃ・・・じゃあ俺も」
「直江は悪いが、まりあを見ていてくれるか?」
「お兄ちゃん、あたしも行く・・・」
「まりあはここにいなさい。直江、頼んだぞ」
「あ、ああ・・・」
そう言付けて、峰さんが一人でダイニングを出て行った。
ああいうところは流石に、男らしいというか頼りになる。
それに引き換え。
「そういやさ・・・原田と一条って、トイレ行ったきり、ずっと帰って来ないよな・・・」
「ちょっと直江君やめなさいよ、まりあちゃんがいるのに!」
「あ、ああ・・・ごめんね、まりあちゃん。きっと大丈夫だからね・・・」
「お兄ちゃんは強い人だから、平気です・・・」
だが、そんなまりあさんの願いも虚しくというべきか、そこから30分が経過しても峰さんが戻ってくる様子はなく、原田さんや一条さんもまた、出て行ったきりだった。
これはいよいよ、事件を疑う必要があった。
「仕方ないですわね。こうなったら皆さんで様子を見に行きましょう」
時刻は午前零時をすでに回っており、あたくしは思い切って声をかけると、自分を奮い立たせるように、勢いよく椅子から立ち上がった。
大窓から薄明かりが差しているダイニングから廊下へ出ると、まさに漆黒の闇であり、先頭を歩いていたあたくしは、竦みあがろうとする足と己の弱い心臓を、必死で鞭打った。
「ねえ、電気つけましょうよ・・・」
「何を仰ってるのよ、強盗だったらどうなさるおつもり?」
怖がりで考えなしの江藤さんに、あたくしは毅然と言い返す。
「だって、聞こえて来たのは女の悲鳴よ? 女の強盗なんて、あんまり・・・」
「あんまり・・・でしょ? つまり可能性がゼロではないということじゃありませんの。それに、校内で暴漢に遭遇して、逃げ回っている我が校の生徒の悲鳴という、さらに考えやすい可能性だってありますわよね。こちらの居場所を知らせ、通報の可能性を疑った犯人が、やけになって襲いかかって来ないとも限らないですわ。やはりこのまま進むほうが無難でしょう」
「それも、そうね・・・」
江藤さんが言うと、後ろから手を握られた。
震える小さな手・・・・まったく、どうしようもない怖がり屋さんだこと。
そのくせに意地っ張りだから、可笑しいのですわ。
一条さんという人がありながら、原田さんがこの人を放っておけない気持ちが少しだけわかる。
そのとき、ゴトリという大きな物音が聞こえ、一同がその場で凍りつく。
「な・・・なんの音?」
「初音様、みく怖いですぅ」
今度はお芝居でなく小森も怖がっていた。
「玄関のようですわね」
「直江くん・・・・、見て来てよ。男でしょ!?」
「そ、そんなこと言ったって・・・」
「あたくしが行きますわ」
元はと言えば、皆様をお誘いし、この合宿を決めたのは自分だ。
主催者としての責任がある。
「雪子・・・あぶないよ、直江くんに行って貰いなよぉ」
あたくしの手を握りしめながら江藤さんが言い募る。
自分が手を放すのを怖いくせに、よく仰いますこと。
「カレー屋さん、ご学友の誼で江藤さんをお願い致しましたわ。あたくしが行ってまいりますから」
「い・・・いや、そこは俺が・・・」
「結構ですわよ。あたくしは城南女子の生徒ですから、この寮のこともある程度はわかります。それにこの合宿を開いたオカ研の会長として、みなさまをお守りする責務がありますわ。佐伯、小森・・・あとをお願い」
「気をつけなよ、山崎・・・」
「わかってますわ」
「待ちたまえ雪子」
音がした玄関ホールへ向かって歩き出してすぐに、再び後ろから手を引かれる。
今度は自分よりも大きな手だ。
「先輩、冗談は止めてください、こんなときに」
さすがに頭にきた。
手を振り払おうとするが、逆に強い力で握り返される。
「私も一緒に行くとしよう」
「必要ありません。あたくし一人で十分です」
「こんな震えた手で、そういうことを言うのかい?」
「・・・・っ、そりゃ・・・あたくしだって少しは」
怖いに決まっている。
こんなときにまで先輩の遊びに付き合っている余裕なんてないのだ。
だから、止めて欲しいのに。
「本当は私が行くから残れと言いたい。しかし、責任感の強い君を止めてもきっと無駄なのだろう・・・だから、せめて一緒に行かせてくれないかい? 私にも名誉寮長として、君達をここへ呼びこんだ責任を、果たさせてはもらえないかな?」
「先輩・・・・」
「それじゃあ行くよ?」
先輩に先導されて、玄関ホールへの暗い廊下をゆっくりと歩んで行った。
丸天井から釣り下がっている、シャンデリアタイプの、電気が消えた照明器具。
その真下に立っている、白いマリア様。
突き当りには玄関口があって、観音開きの扉の上にある明かりとりから、磨りガラス越しにうっすらと見えている白亜の城南ロザリオノートルダム教会のシルエット・・・。
怪談に出て来た二人の寮生は、あの教会で永遠の愛を誓い合った直後、校門の前で避雷針に身体を貫かれて死んだのだ・・・。
何を考えている、雪子。
それはただの怪談じゃないの。
作り話に決まっている・・・あるわけがない。
「雪子、大丈夫かい?」
先輩が立ち止り、こちらを振り返って聞いた。
「大丈夫ですわ・・・」
「怖いのなら、みんなのところに戻ってもいいよ。私が一人で様子を見て来る」
「大丈夫だと言っているでしょうっ! あ・・・いえ、すいません。本当に平気ですから・・・その、よければ手をもう少しだけ、引いてくださいますか?」
「もちろんだよ、雪子。さあ行こう」
ヒステリーだなんて、恥ずかしいったらありゃしない。
けれど、このときは先輩のこの厚かましさが、少しだけ・・・ほんの少しだけ、頼もしく思えた。
そう言って、先ほどよりもさらに強く手を握られる。
このときになって初めて、先輩の手がとても温かく心地よいと感じた。
正直に言うと、強く引かれたら、肘の古傷がしくしくと痛い。
それでも、その強引さが、このときはなぜだか嬉しかった。
玄関ホールまで出て来た。
「音がしたのは、おそらくこの扉のすぐ向こうですわね」
「そうだね。チャペルで何かあったのかもしれない・・・行ってみよう」
先輩が扉に手をかける。
次の瞬間、ホールで閃光が瞬き、続いて地鳴りのような音が轟いた。
廊下で幾つもの悲鳴が聞こえ、江藤さん達が阿鼻叫喚の大騒ぎになっていることに気が付く。
「大丈夫かい雪子?」
「せ、先輩っ・・・」
気が付けばあたくしは、先輩にしっかりと抱き締められていた・・・。
慌てて、離れようとして、その前に先輩に手を握られる。
「そんなに強く握ると、掌に爪が食い込むじゃないか」
「こ、これは・・・」
あたくしとしたことが、一生の不覚。
どうやら自分から先輩に抱きついて、彼女の硬い胸のあたりの衣服を、両手でギュッと握り締めていたようだった。
そのときギイッ・・・と音を立てて、扉が勝手にこちらへ開く。
「っ・・・・!」
あたくしは息を呑みながら、動く扉を見ていた。
どうやら先輩もさすがに凍りついている。
ゆっくりと重い木の扉が開き、再び夜空に稲妻が光って、目の前に立っていた人物がシルエットとして浮かび上がった。
深夜の静寂を喧騒と混乱へ変えてゆく激しい雷鳴とともに、黒い影は揺らめきながらこちらへ近づき、あたくしと先輩のすぐ目の前で立ち止まった。
「で・・・・出たぁっ・・・・・!」
先輩が後退ろうとして段差に躓き、床に尻餅を突いて、そのままあたくしの足へしがみついた。
あたくしもその場で硬直していた。
女の幽霊・・・いや、それ以上に見てはいけないものを・・・・シスター・サフィックリフィス!!!
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