『薔薇の追憶〜Rose Garden壱』

 

「原田ちょっと待ってくれるかい?」
教室の鍵を返した俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)は、帰宅するべく昇降口へ向かっていた。
階段を降りようとしたところで後ろから呼び止められて立ち止まる。
副担任教諭の有村小五郎(ありむら こごろう)だった。
手にはA4サイズのコピー用紙を1枚持っている。
「何ですか?」
白い面積の半分ほどを罫線で仕切られた、見慣れない用紙。
何かの申請書のようだった。
「原田の家はたしか、城西(じょうさい)1丁目だったね。悪いけど帰り、一条にこれを持って行ってやってくれないか?」
「ああ、えっと・・・あの」
声が詰まりそうになり、俺は一旦口を噤む。
一条篤(いちじょう あつし)。
「僕が持って行くべきなんだろうけど、実はこれから会議があってね。ちょっと時間がかかりそうなんだ。風邪で寝込んでいるヤツにあまり遅く会うのも可哀相だし、・・・何とか頼むよ」
有村教諭がやや強引に紙を俺に手渡してくる。
用紙には『泰陽(たいよう)市中学高校美術作品展参加申請書』と表題が書いてあった。
画家で伯父の原田英一(はらだ えいいち)が例年審査員を務めている展覧会のひとつに、そういう美術展があったと思い出す。
基本的に参加は自由だが、例年うちの学校では教諭の推薦で各学年から応募者が決定していたはずだ。
しかし、今年は一条が推薦されていたとは知らなかった。
「でも俺・・・」
できれば今は一条に会いたくない。
「悪いね。・・・それと、これは僕から原田に。本当はさっさと帰って今日は早めに寝なさいって言ってあげたいところなんだけど、その前に寄り道してもらいたいからね。先にそれを飲んでから行くといい。あまり酷い顔色を見せると一条が心配するだろうから。・・・じゃあそろそろ会議が始まるから僕は戻るけど、頼んだよ。大事なものだから、ちゃんと本人に手渡すようにね!」
一方的にそれだけ言うと有村先生は職員室へ走って行った。
「なんつう強引な・・・大体、俺の家と一条の家は、全然方向が違うっての」
用紙へ目を戻す。
締切日は6月10日・・・・まだ2週間以上先だ。
多分本人が登校してから記入させても、十分間に合うだろう。
まさかと思うが、俺たちが喧嘩中だと気付いた先生が、気を回してくれたのだろうか・・・これを持って行って、ついでに仲直りをして来いと?
「いやいや、・・・いくらなんでも考えすぎか」
俺は軽く頭を左右に振ると、勢いよく鞄のファスナーを開いた。
そして、なんとなく学校へ持って来てしまった包みを目にして、大きく溜息を吐く。
「とりあえず、行くか」
紙を四つ折りにして畳むと、数学と古文の教科書の間に差し込み、ファスナーを閉め、意を決して一条の家へ向かった。

 

俺と一条は城陽(じょうよう)学院高等学校3年E組のクラスメイトで、高校入学以来の付き合いである。
正確には俺が城陽の中等部に通っていた当時、3年の夏休みに二葉(ふたば)中の彼と偶然電車で出会い、告白されてズルズルと今に至る。
もっとも最初はただの友達・・・いや、一条は俺の犬状態だったのだが、そんな俺達が色々あって恋人として付き合い始めたのは今年の春。
修学旅行先のチューファで気持ちの面だけでなく肉体的に関係を結び、俺達はこのままずっと寄り添っていられるのだと、漠然とそんなことを俺は思っていた。
だが修学旅行から戻って1週間も経たぬうちに、一条はふたたびチューファへ留学の為に一人で旅立った。
俺がその話を聞かされたのは、出発当日の朝だ。
その一条が戻ってきたのは昨日の夜。
1ケ月ぶりに顔を合わせた俺達は、派手に口論をした。
俺は間もなく黙って留学を決めた一条を許したが、相手の怒りは収まらず、その原因は俺が作っていた。
新学期から副委員長になっていた俺は、昨日の夕方、委員長の峰祥一(みね しょういち)と二人で旧校舎の資料室へ閉じ込められ、成り行きで峰とキスをした。
修学旅行中にも峰にはキスされていて、そのときはある種の代償として唇を奪われただけで、昨日も悪戯のようなものだったのだが、話しているうちに峰が俺に対し、クラスメイト以上の気持ちを抱いているらしいことに、俺は気づかざるをえなかった。
そして俺自身、ただのクラスメイトとして峰を見ることができなくなっていたことも自覚したのだ。
キスをしたことこそもちろん打ち明けはしなかったが、一条は俺の態度から敏感に異変を察した。


君自身に何か意識の変化があるせいじゃないのかい?


広い背中を俺に向けたまま、聞き慣れた彼の声が告げたその言葉は、今日一日思い出すたびに俺の胸を抉り、痛みで目の前が何度も滲みそうになった。
「クソッ」
俺は先生から貰った冷たい小さなボトルの蓋を捻って口をつけると、一気に中身を飲みほした。
少し癖のある滋養強壮ドリンクは、買ってきたばかりのようで、甘い液体が喉を伝い下りてゆく。
ひょっとしたら最初から俺に飲ませるつもりで買ってきたのかもしれない。
だとすれば、今日一日俺はそれほど酷い顔をして委員長業務を代行していたということだ。
情けない・・・。
散々俺達の仲を引っ掻きまわしてくれた3−Eクラス委員長の峰祥一は、昨日の宣言通り今日は欠席。
理由は体調不良とだけ聞いているが、一条ほどではないにしろ峰も休みが多い生徒だから、誰もそれ以上追及していない。


放してくれるかい。・・・・君を傷つけたくはない。


昨夜の別れ際に一条が言った警告。
出会って以来、一条が初めて俺を突き放した瞬間だった。
けどさ・・・やっぱり納得いかねえよ。
俺が悪かったのは認める。
でも言い訳ぐらい聞いてくれたっていいだろ?
てめぇこそ何なんだよ!
俺がどついても、蹴飛ばしても、いつも付き纏ってきやがって、許してもいねぇのに勝手に抱きしめたりキスしたり。
・・・エスパニアのアイドルタレントのリタとお前の熱愛報道を、マスコミが無責任にしつこく騒ぎたてて、そのたびに俺が女々しく嫉妬してひとりで不貞腐れていると、お前は何度でも我慢強く否定して、いつも俺の心から不安を取り除いてくれたよな。
そしてとうとう俺達はチューファのホテルのプールサイドで・・・。
なのに、・・・たったこれだけのことで、俺とお前は駄目になっちゃうのかよ!?
冗談じゃねぇよ。
俺を傷つけたくないだ?
上等だよ!
ぶっ飛ばすなり、蹴り倒すなり好きにしたらいいだろ。
こっちは散々やってきたんだ。
今更遠慮なんかいるかよ。
それで、お前が引きとめられるなら・・・俺は何をされても文句は言わねえから。
怒りも欲望も、全部俺にぶつけてこいよ。
こんな仕打ちをされるなら・・・・そのほうが、よっぽどましだ。

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