学校から歩くこと約20分。
いつもなら篤の部屋に近い勝手口から入るが、散々迷ってけっきょく正面玄関側へ回った。
「つか、この門潜るの初めてだよな・・・・えっと、どうすりゃいいんだろ。呼び鈴どこだ?」
監視カメラっぽいものも回っているし、超有名セキュリティー会社のシールがこれ見よがしに壁へ貼ってあるしで、寝不足も手伝っていた俺は少々混乱していた。
「どちら様?」
「は、はいっ・・・ええと、城陽高校2年・・・じゃない、3年E組・・・」
不意に後ろから声を掛けられた俺は、門の前で慌てふためきながら振り返る。
長身に優しい面差し、少し厚めの唇と穏やかな声・・・よく似ている。
「なんだ、秋彦君じゃないか!」
「え!?」
「こんなところに突っ立ってないで、ほらほら入って」
彼はにこやかに笑って俺の肩へ馴れ馴れしく手を置くと、重厚な木製の門の隣に作ってある、小ぶりの通用門らしき扉を押して、俺を中へと促してくる。
「あの、えっと・・・」
男性は見たところ20代半ばぐらいだろうか。
篤とよく似た外見や声のトーンだが、あいつに兄弟は確かいないはず。
服装はワイシャツにネクタイ、スラックス・・・どう見ても親父さんの会社関係に見えるが、それにしては篤と親しそうだし、そもそもなぜ俺の事まで知っている・・・?
「一体どうしたんだい? いつもみたいに勝手口から入ればよかったのに、玄関から来るなんて・・・ああ、そうか。篤君と喧嘩中だったね。まったく困ったもんだよねぇ、あの意地っ張りにも・・・そこ、脚立があるから気をつけてね」
「あ、すいません・・・えと、あなたは・・・」
正面玄関からまっすぐ庭を進んでいた俺達は、どうやら作業中の造園業者があちこちに置いている脚立や作業道具などを避けながら、篤の部屋がある裏庭の方へ向かっていた。

「いたいた。篤君、そろそろ終わりそうかい!?」
突然男性が前方を見ながら手を振って、大きく声を張り上げる。
白っぽい軽トラック越しにスラリとした後ろ姿が、10メートルほど先に見えて、俺の胸はドキンと高鳴った。
篤・・・。
「あともう少しだけ・・・、秋彦!?」
「・・・・」
篤は俺の姿を見つけて、言葉を切る。
一瞬だけ目を丸くした表情が、次の瞬間には気不味そうに歪められ、そのまま視線が逸れてしまう。
胸がズキリと痛み、俺も言葉が出てこない。
「もう粗方終わったみたいだね。あとは水遣りだけかな。・・・じゃ、僕は仕事があるからそろそろ行くけど・・・」
「はあ・・・えっと、ちょ・・・!?」
肩をぐいっと引かれて、息がかかるほど近くに男性が顔を寄せてくる。
「もしもまた何か酷いことを言われて泣きたくなったら、次は応接間に来るんだよ。僕がいっぱい慰めてあげるから」
「・・・はい!?」
「達也さんっ・・・!」
俺と篤がほぼ同時に叫んだ・・・篤が叫ぶなんて珍しい。
見ると顔を真っ赤にして男性・・・達也さんを睨みつけている。
目が本気だった。
篤に声を荒げられて、俺の肩から達也さんの手があっさり離れる。
「おやおや、意地っ張りの痩せ我慢もここまでだったね。残念。それじゃ、僕は雷が落ちないうちに退散するかな。・・・秋彦君、あとは頼んだよ」
そう言って達也さんは俺を案内してくれた道ではなく、そのまま進行方向に向かってさっさと歩いて行った。
応接間とやらはそちらにあるらしい。
俺は改めて篤を見る。
篤も俺を見ていた。
白い無地のTシャツに脹脛辺りまでロールアップした色褪せたストレートのジーパン、素足にビーチサンダル・・・随分とまたラフな格好である。
「あの人は?」
「一条達也(いちじょう たつや)・・・父方の従兄だよ。父の秘書をしてる」
なるほど、だからよく似ていたのか。
それにしても・・・。
「お前、風邪はもういいのかよ・・・」
どう見ても庭仕事中の篤は、再び植物たちへ向かっていた。
「まあね。・・・えっと、これ終わらせちゃうからもう少しだけ待っててくれる?」
そう言って篤は足元のビニール袋の口を縛ると、雑草らしき植物を一杯に詰めた袋を持って植え込みの奥へと消えた。
目の前には甘い香りを濃密に漂わせている大量のピンク・・・薔薇だろうか。
花びらの数が多く、丸く咲いている。
植え込みの向こうで散水音が聞こえ始めたかと思うと、青いホースを引き摺りながら篤が再び姿を現した。
水遣りだ。
「それってお前が育ててんの?」
「うん、そうだよ」
「ふうん・・・ガーデニングが趣味だなんて初めて知ったよ」
「そういうわけじゃないんだけど・・・ローズオイルを作ろうと思ってね」
そういえば篤は香水などの香りが好きで、俺が今つけている『Te amo』も彼から貰ったものだった。

Te amo・・・。

不意に篤の熱っぽい視線と囁き声を思い出し、身体の芯が熱を持ちそうになって焦る。
溜まっているんだと思いだした。
Te amo・・・エスパニア語で愛しているという意味。
またそう言ってもらえる日が来るのだろうか。
「ロサ・ケンティフォリア」
突然篤が言った。
「え?」
「この花の名前だよ。オールドローズの一種で香水の原料としてよく栽培されているんだ。この花からローズアブソリュートというオイルを作ることができる」
「へぇ・・・それって綺麗なもんなのか?」
「粘り気があって透き通った赤色をしているみたいだよ」
みたい・・・ということは、篤も初めて作ろうとしているのだろう。
「見てみたいな・・・」
俺は植え込みに近づき、花を正面から覗きこむ。
近くで見ると、結構丈があり、背の高いものは身長185センチある篤と同じぐらいの高さがあった。
花の大きさは直径5〜6センチ程度で、花弁が薄く繊細な印象だ。
手入れが大変だったことだろう。
「一応そのつもりなんだけど・・・」
不意にそう言いかけて篤がハッと息を呑み、隣に立っていた俺を見る。
頬が赤い。
一瞬何のことかわからなくて、先ほどの会話を思い出す。
「出来あがったら見せてくれるのか? 楽しみだな」
「うん・・・じゃあ作るときに呼ぶよ。瓶に詰めると色がわからなくなっちゃうから」
「約束だぞ。ところでアロマオイルってどういう風に使うもんなんだ?」
よく名前は聞くし、アロマテラピーなんてのも名称こそは聞いたことがあるが、実際は何をするものなのかよくわからない。
「何にでも使えるよ。香水の原料だったりお風呂に入れたり、効果の高い他の成分と配合して・・・マッサージに使ったり。それぞれに効能があって、目的に合った使い方をしないと気分が悪くなることもあるから、気をつけないといけないけどね」
「ふうん。じゃあ、この花はどういう効能があるんだ?」
「薔薇だからね。やっぱり香水向きではあるのかな」
「ローズ・・・・なんつったっけ?」
「ローズアブソリュート?」
「そうそう。それはどういう効能があるんだ?」
「それは・・・」
そこでなぜか篤は俺を見る。
目が一瞬・・・気のせいだろうか。
「・・・それにしても、手入れが大変だったろ? よくこれだけ育てたな」
俺は自分から話題を変えた。
篤の目は、俺にはごく見慣れたものだった。
だが、すくなくともこんな明るい日の下で。
ましてやあちこちに植木職人さんたちがうろうろしているような、篤の家の庭先で受け止めていいたぐいの視線ではなかったのだ。
あの視線は・・・・そう、彼が行為中に俺へ見せる視線だった。
「香りの強い花は虫がつきやすいからね」
「じゃあ殺虫剤散布したりとかも自分でやってたのか?」
薔薇は見たところ、おそらく数百輪ほども咲いていて、この辺りはちょっとした薔薇園状態になっていた。
「手で取っていたよ。化学薬品は使いたくなかったからね・・・」
「マジかよ!」
それはかなり凄い。
「といっても、さすがに限界があるから、たまに水圧で飛ばしたり、小型の真空掃除機で吸いとったり、・・・あと、漢方農薬を使ったりぐらいはしたよ。・・・もっとも、この1ヶ月程は、ハルさんや植木職人さんが交替でやってくれてたみたいなんだけど。みんな忙しいのに、我儘言って悪かったかな。でもちょっとデリケートなタイミングでの使用を考えているし、そのぐらいでちょうど良かったかもね」
ハルさん、というのは一条家の使用人のひとりで、生まれた時から篤の世話を焼いている恰幅の良いお婆さん・・・いわゆる婆やってやつだ。
悉く別世界である。
しかし・・・。
「掃除機っすか・・・」
ゴミパックの中身を想像して鳥肌が立ちそうになった。
「もう・・・効能は聞かなくていいの?」
不意に聞かれて隣を見上げると、篤がまたあの目を俺に向けていた。



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