「ああ。お前はもちろん知ってるんだろ?」
「そりゃ」
「だったらいいさ。使ったらわかるだろ」
「・・・そうだね。となると、ぜひ早く使いたいな」
そういうと篤がホースを持ったまま顔を近づけて来たので、俺は少し上を向いて、彼のキスを受け止めた。
少し離れているとはいえ、同じ庭で植木職人さんが梯子に上り、槙の木を剪定中だったが、まあいいだろ。
軽く音を立てながら、篤の唇が離れていく。
昨日もさんざん口付けを交わしたのに、なんだかひどく懐かしかった。
「・・・篤、昨日は本当ごめん。・・・俺、どうかしてた」
「その話ならもういいよ」
「いや、駄目だろ。だってお前、全然納得してないんだろ?」
「じゃあ、君の心の中から今すぐ峰が消えたりするのかな」
「消えるっつう意味にもよるけど、少なくとも俺はお前が好きだし、峰とお前が俺の中で同じような存在であるわけはない。それだけはちゃんと言っておく」
「つまり、今と何も変わらないわけでしょ?」
「何もって・・・だからっ・・・」
「やめようよ、この話はもう」
「いや、それじゃあお前・・・」
「僕が留学している間に君と峰の間に何かがあった。それは君を酷く動揺させたし、おそらく峰が君を好きなんだろうということは、僕も気付いている。そして、たぶんそれを裏付けるようなことが君たちの間にあったってことなんだろう」
「そうだけど、・・・けど俺は」
「だからもういいんだよ秋彦」
「よくねえよ、なんでそうなるんだよ!」
「つまり起きてしまったことを元に戻すことはできないからだよ。そして人の気持ちも容易に変えることはできない。けれど僕だって人間だ。君がそうだったように、僕も思いがけない出来事には動揺するし、不愉快なら怒りもする。昨日君から逃げたのは、あのまま二人でいたら君を・・・・僕はたぶん、怒りと欲望にまかせて犯していたと思うから」
「・・・・篤」
「僕は君を愛している。そんな君に、一時の激情で暴力をふるいたくはなかった。だから君から逃げた」
「その方が・・・」
「秋彦?」
声が震えた。
「犯された方が・・・まだましだ」
「・・・何を」
「お前に拒絶されるぐらいなら、俺はどんな痛みでも受けとめられたよ。それでお前の気が済むなら、ボコられようが、レイプされようが・・・俺はきっと耐えられた」
「秋彦っ・・・」
「・・・もう二度と、もうこんなことは絶対に止めてくれ。俺はお前に捨てられるのが・・・一番怖い」
「秋彦」
篤が手を放し、ホースが地面でクリンと跳ねて、水流が俺の足元を一瞬だけ濡らしていく。
両腕で強く抱きしめられ、俺は厚みのある胸へ顔を擦りつけた。
コットン越しに感じる、少し汗ばんだ篤の匂い、体温・・・あれから24時間経っていないというのに、それがひどく懐かしかった。
「お前がそうしろっていうなら、俺は明日にでも副委員長を降りる。峰とも絶交する」
頭の上で苦笑が零れた。
「だから・・・あれは僕が悪かったって言ってるでしょ。僕はそんなに狭量な男じゃないよ。・・・・これでもけっこう優しいし理解があるし穏やかな気質のつもりなんだけど、秋彦の中では印象が変わっちゃったかな」
「徐々にではあったが、わりと前からな・・・・なあ、もう本当に怒ってないのか?」
一見人当たりがいい篤だが、ごく近い距離で付き合ってみるとなかなか強引で我儘だ。
彼には二面性がある。
そしてそれが不快どころか嬉しいとさえ感じられるのは、俺への独占欲が根底にある押しの強さの表れだとわかるからだ。
「こんなに君からの愛を見せつけられてるのに、どうしてまだ僕が怒っていると思うの? 君の心をかき乱した峰には頭に来るけど、・・・それもどうかな。今はすでに優越に変わってるよ」
「なんだそれ」
「だってそうでしょ。僕に犯されてもいいとまで言われちゃったらね」
「それはっ・・・だから、避けられるぐらいならって意味で・・・」
積極的に乱暴に扱われたいというわけでは、もちろんない・・・筈だ。
だが篤が相手なら・・・・どのように抱かれても、あるいは。
俺は思わず首を横に振る。
篤が苦笑するのがわかった。
「わかってるよ。僕だってそんなことを君にする気はない。そうしなくても、君は僕が誘えば、絶対に断らないでしょ」
一瞬だけ俺の頭を過ったあらぬ考えを見透かされたわけではないようで、少しホッとする。
だが、これはこれで相当恥ずかしい質問を受けていた。
しかし答えは決まっている。
「馬鹿やろう・・・・断るわけねーだろ」
「早くローズオイルを使ってみたいもんだね・・・君がどんなふうに乱れるのかを見てみたい」
やっぱりそういう効能なんだな・・・この阿呆は。
「お前、それはそうと・・・学校休んでエッチなオイルの原料作りに日がな一日精を出していたのかよ。呆れた奴だな」
「エッチだなんて失礼な。ローズは心を穏やかに保ち、抗菌効果があって、女性を美しく引きたてるとても万能な精油になるんだよ。もちろん花としてもこの通り美しい。・・・・まあ特にアブソリュートが催淫特性に秀でていることは否定しないけどね」
「お前はどうせそっち目的なんだろ」
「君だって期待してるくせに」
「んなことっ・・・・まあ、少しはな」
身体を密着させている体制では、この手の虚勢に意味はない。
俺もそろそろ限界だったし、明らかに篤もそうだった。
まだ精油になっていないとはいえ、いくらか咲き綻ぶ薔薇の芳香にもそういう効果があるということなのだろうか。
それとも単純に俺達がお互い溜まっているだけかもしれない。
困った・・・早く、欲しい。
「オッケー。・・・じゃあ秋彦、ちょっとだけ待っててね。とりあえずこのホースを片づけて手を洗って来るから。そしたら離れに行こう」
低い声が最後に耳元で囁いて離れてゆく。
「ああ」
応える声が掠れた。
ホースを巻き取りながら、篤が再び植え込みの向こうへ消える。
彼の部屋は広い一条邸の敷地内で独立した建物になっている。
母屋を拠点にすると軽く1キロも遠い位置にあり、篤以外に家の人が殆ど誰も来ないから、俺は何度かその離れで篤と性行為をしたし、篤が留学に出発する前日から早朝にかけてはずっと裸で抱き合っていた。
つまり篤が離れに誘うということは、これからそうしようという誘いを受けているということで間違いない筈だ。
篤の話を信じるなら、彼は留学中も碌に自慰すらしていなかったようだし、俺も色々あってそれどころではなく確かに相当溜まっている。
となると、否が応にも期待をしてしまう。
お互い様だとはいえ、なんだか自分がひどく浅ましく思えて恥ずかしい。
先生の御遣いがあったとはいえ、さっさと仲直りが出来てよかったが、代わりにこんな自分の有り様を自覚させられると、それはそれで自己嫌悪に陥ってしまう。
まったく俺はいつ間にこんな・・・。
「そうだ・・・あっ」
俺はここへ来た当初の目的を思い出し、慌てて鞄を探る。
4つ折りに畳んだA4サイズの用紙をとりだそうとして、その下に見えている小さな小箱に目を留めた。
修学旅行から戻って来たその夜に、偶然ネットで見つけて注文をして、・・・喧嘩をしてそのままになっていた。
だから昨日の夜に渡すつもりだったのに、また喧嘩をして・・・なんとなく学校へ持ってきて。
「おい坊主、危ないぞ・・・!」
突然空の方から声が聞こえ、次の瞬間何かに強く身体を弾き飛ばされる。
辺りに響き渡る金属質な轟音と、同時に全身を襲った強い打撃。
「坊ちゃん!!」
「おい、誰か救急車を呼べ!」
急に物々しくなった辺りの喧騒で、俺は軽いショックから意識がはっきりするのを待つと、すぐに自分へ覆いかぶさっている大きな物体に目を移した。
身じろいだ瞬間、強かに地面へ打ちつけていたらしい背中がズキズキと痛みだす。
俺が動いた拍子に上にいた人物が、身体をビクリと跳ねさせて低い呻き声を発し、その反動で彼に倒れ掛かっていた大きな金属が、ガシャンと高い音を立てて地面へ完全着地する。
3〜4メートルは裕に丈がありそうな金属製の梯子だった。
「篤・・・」
あんな大きな物を・・・俺を、庇ってくれたのか・・・!?
彼は俺の肩の横辺りに右手を突くと、苦痛に耐えるように身体をブルブルと震わせながら、ゆっくり起き上がろうとする。
傾きかけた夕陽を背後に、彼の顔が一瞬黒く消え、手を突いていない側の肩の辺りからボタボタと何かが落ちて来る。
それは白かったTシャツの袖をあっという間に真っ赤に染めて、最初に俺の頬を濡らし、地面を濡らして、次に俺の制服へ・・・とめどなく大きな雫となって零れ落ちて来る。
あちこちに染みを作ってゆく鮮血が間もなく俺の視界を深紅に埋め尽くし・・・急激に意識が遠い過去へと引っ張られた。
04
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