古ぼけたアパートの一室。 男同士の約束だよ。 彼の話す言葉は5歳の俺には難しすぎた。 秋彦・・・可愛いね。 掠れた声で容姿を誉められ、大きな掌が俺の頭を優しく撫でてくれる。 違うんだ夏子(なつこ)ちゃん・・・秋彦のパンツの中に虫が入ったから・・・。 虫・・・? 秋彦・・・秋彦、ごめんな・・・こわくないから・・・ けだもの! 秋彦に近づかないでっ・・・! やめろっ・・・やめろぉっ! 背後から迫る母から逃げようとした彼はこちらを振り向いた瞬間、身体を仰け反らせて目を見開きながら、勢いよくぐらりと倒れて来た。 けだもの! けだもの! やめろ夏子ちゃんっ・・・! 若く美しかった母が長い髪を振り乱し、凶器を振りあげる。 僕と君とで秘密を共有するんだ。 けだもの! 返して! 冬矢(とうや)を返して! 階下で取り乱し、泣き叫ぶ声。 秋彦! 強く揺さぶられる俺の身体。 篤くんは先に手当を・・・・秋彦君も大丈夫かい? そいつが・・・この坊ちゃんはさっきから泣いてばかりで、呼びかけても反応が・・・。 秋彦・・・僕だよ、わからないの!? 篤君やめたほうがいい・・・誰か、彼の家に連絡を。 秋彦! 近くで交わされているはずのに、どこか遠くで聞こえている人々の会話。 おにいちゃん・・・やめてよ。
俺に圧し掛かっている見知らぬ男・・・いや、俺はこの人をよく知っている。
母の知り合いで、春江(はるえ)さんによるとイメクラ時代の母の常連客・・・などと言っていただろうか。
けれどその人はいつも俺に優しくしてくれて、母も彼と仲が良く・・・。
とにかくイメクラに結びつくような印象が彼にはない。
だから、春江さんの勘違いだと思う。
だって彼の目的は母ではなく・・・。
おとこどうしのやくそく?
そうだ秋彦。僕と君とで秘密を共有するんだ。
きょうゆう?
だが、母以外の世界を知らなかった俺にとって、他の誰かと交わすコミュニケーションは新鮮で心がわくわくとして、俺は彼という生まれて初めてこの世で出会った友達の虜になっていた。
手に余るボールやバットの使い方を教えてもらったり、近くの山で一緒にセミや魚を採ったり。
そしていつも俺達はその日の最後に「ひみつのきょうゆう」をしていた。
母に内緒で行う儀式は彼との連帯を感じさせ、「ひみつ」を持つことも大人になった気がして、何よりどこか危険な香りに満ちていた儀式は、いつも俺を魅了した。
けれど、「ひみつのきょうゆう」をしている間の彼が、少しだけ俺には怖かった。
そして彼は身体を震わせ、俺にも付いている、けれど俺とは全然大きさが違い、父のように周りを毛髪に覆われているが形や固さが異なる物から、尿ではない何かを勢いよく吐き出して、それを合図にそのひとときは終わりを告げるのだ。
男同士の約束。
けして他言しないこと。
それを俺は今に至るまで固く守り抜いている。
だが儀式が長く繰り返されることはなく、恐らく秘密は第三者の介入によって暴かれて、中止せざるをえなくなった。
そんなのはいってない・・・なにをいってるの?
ぼくたちは「ひみつのきょうゆう」をしてただけでしょ。
おかあさん、どうしておこってるの?
衝撃で一瞬気が遠くなる。
塞がれた視界、肌に感じる苦しそうな息遣い、呻き声が聞こえ、身じろいだ次の瞬間、彼がゆっくりと起き上がる。
頬に、畳に、俺の服に、とめどなく落ちて来る雫・・・鮮血。
蛍光灯の灯りを背後に俺を見下ろす彼の表情は黒く消えていたが、俺は目の前でとんでもない事が起きていることを本能で知った。
照明の下でギラリと刃を光らせている包丁の表面が、白い光沢と赤い血糊で綺麗に二分されていた。
ほっそりとした肉親の手を汚す他人の血液・・・。
凶器が再び振り下ろされて俺は男の叫びを耳にし、目の前が真っ赤に染まった・・・・・。
母が、彼を殺した・・・・?
そんな筈は・・・だって、母は殺されたのだと聞いている。
誰に・・・おにいちゃんに?
そう。あれは、確かにおにいちゃんだ。
わからない・・・・。
冴子(さえこ)さんの声だ・・・・何も聞きたくない。
何も思い出したくない。
おにいちゃん・・・いや、違う。
その中から俺は、必死に大切な声を見つけようとする。
母さん・・・父さん・・・冴子さん・・・・英一さん・・・・そうじゃない。
俺にはもっと・・・・愛しい誰かが。
秋彦・・・可愛いね。
怖いよ・・・。
秋彦!