目を覚ましたとき、俺は見慣れた部屋にいた。
自分のベッドだ。
「いててて・・・・」
起き上がろうとして、背中がズキズキと悲鳴を上げる。
なんとなく霞がかかったような脳細胞を働かせて、記憶を順に辿ってみた。
俺は確か、一条邸の庭で、倒れて来た梯子の下敷きになりかけて、・・・そう、一瞬早く気付いてくれた篤に突き飛ばされて、地面に背中を打ちつけたのだ。
気が付くと、俺に覆いかぶさった篤がゆっくりと起き上がろうとしていて・・・。
「あいつ・・・・身を呈して俺を庇ったんだよな」
白いTシャツの肩から下をべったりと赤く染め、血を流していた篤。
その光景を見て、俺は幼い頃の出来事を思い出し、パニックになった。
5歳の頃、俺とよく遊んでくれた近所の男性。
そして恐らくは、母を殺した犯人。
よりにもよって、そんな男の面影と篤をダブらせるなんて・・・・。
不意に階下で言い争う声が聞こえ、俺はその中に篤の声を聞き取り、慌ててベッドから出ようとする。
床へ下ろした足が、少しふらついていた。
どうやら薬でも飲まされて眠っていたのだろう。
壁に手をかけながら足を進めて階段を下りた。
「篤」
「・・・秋彦!」
玄関に立っていた篤は左肘から下をがっちりギプスで固定させており、着替えてきたシャツの肩のあたりも不自然に盛り上がっている。
服の下は恐らく包帯でぐるぐる巻きになっているのだろう。
俺がその傷を負わせたのだと自覚し、奥歯を強く噛み締めた。
「秋彦」
部屋へ戻れと言いたげに、冴子さんが強い語調で俺の名前を呼んだ。
篤がここで言い争っていた相手は彼女だ。
言い争っていたというのは、正しくないかもしれない。
ヒステリックに叫んでいた冴子さんに、篤が粘り強く食い下がっていた・・・そんな感じだった。
冴子さんには俺が何を思い出したのかも、そしてその原因が恐らく篤にあるらしいこともわかっていて、だから篤を俺に近付けたくなかったのだろう。
そして篤は自分もこれだけの怪我を負いながら、それでもフラッシュバックに襲われた俺が心配で来てくれたのだ。
そんな二人を口論させたことが、俺には辛かった。
だが今の俺には篤と話し合う必要がある。
俺の生い立ちは、たぶん普通とは言い難い。
それを自覚していながら、これまでほとんどの出来事を俺は思い出せなかった。
そして今日、その一部の記憶が鮮明に蘇り、結果は薬で抑えなければならないほど俺は錯乱したのだ。
しかも篤がその引き金になっている。
この先、俺には何度こういう事が待ち受けているのか予想がつかない。
篤はこんな俺に、本当に耐えられるのだろうか。
「冴子さん、ちょっと篤と出てきます」
このまま何も知らない彼を巻き込んでいい筈はない。
篤・・・、今まで黙っててごめんな。
「秋彦・・・!」
「いいから行かせてあげなさい」
俺を引きとめようとする冴子さんを、何故か玄関から入ってきた英一さんが制してくれた。
彼はどこへ行っていたのだろうか。
俺は靴を履くと篤を伴い外へ出た。


玄関を出ると白いセダンが、門から少し離れた場所で停まっていた。
近づいて行くと運転席の男がバックミラー越しで俺に気が付いて、中から親しげに手を振って見せる。
達也さんだった。
篤が車へ近づくとパワーウィンドウが下がり、二人が短い会話を交わして、すぐに車のエンジンがかかった。
間もなく俺達を置いて、車が発進した。
「じゃ、行こうか秋彦」
篤は俺を向いてそう告げると、遊歩道の入り口へ向かって歩き出す。
彼の方でも俺と話をしなければならないと判断しているようだった。
広い背中から1メートルほどの間隔を開けて、俺も後に従う。
頭がまだ少しぼんやりとしていた。
踏みしめる土の感触。
足元に黒い影を落とす、街灯の光。
そういえば、今は何時ぐらいなのだろうか。
目の前を黙って歩く姿は、無意識の動作なのか、左腕を軽く曲げて、肘の辺りを右手で庇うように抑えていた。
怪我をさせてしまったのだ。
「傷・・・大丈夫か?」
問いかけると、少し驚いたように彼が振り向き、次の瞬間にはニッコリと優しい笑顔を見せてくれる。
「うん。全然平気だよ」
「ごめんな・・・俺のせいで」
「何を言ってるんだい。こんなの大したことじゃない・・・・君が受けた傷に比べたら」
「俺の傷・・・・?」
言っている意味がわからず、その場に立ち止まる。
篤も俺と向かい合って足を止めた。
その目はいつになく真剣だった。
そういえば英一さん・・・・どこに行っていたんだ?
俺を必死に引きとめようとしていた冴子さんを制し、篤に俺を託した・・・・まさか。
「お前・・・・聞いたのか?」
「・・・・・」
篤は黙って首を縦に振った。
英一さんは、篤に俺の生い立ちを話したんだ・・・。
「そうか。なあ、俺・・・何か言っていたか?」
取り乱していた間、俺は自分が何をしていたのかよく覚えていない。
喉が痛いし、目は真っ赤に腫れていたし、周囲の人が数人がかりで俺を宥めようとしていたから、大声を上げて泣き叫んでいたのだろうぐらいのことはわかるのだが、一体何を口走り、何をしていたのか。
さっぱり自分でわからない。
「とくにこれといった具体的なことは・・・ひたすら泣いていたかな。・・・・ああ、僕に向かってお兄ちゃん・・・って言ってたっけ」
やっぱり。
「そうか・・・」
「お母さんの事件と関係があるのかな」
「ああ・・・・小さい頃、俺とよく遊んでくれた人なんだ。でも俺の目の前でお袋から包丁で刺された・・・・肩から血を流しながら俺を覗きこむお前の姿と、そのときの彼の姿がダブッて、俺はたぶん混乱したんだ・・・・」
「それって・・・・ひょっとしてお母さんを殺した犯人?」
篤の声が固い。
当然だ・・・・よりにもよって殺人容疑者と間違われたのだから。
そして俺は、彼の左の拳が強く握り締められていることに気がついた。
彼の心も傷つけたのだ・・・俺は最低だ。
だが、犯人じゃない可能性も俺は思い出していた。
「一応そうかも知れないことにはなってるけど・・・でも俺、よく考えたらあの後、お袋から包丁を振り下ろされて血まみれになっていた彼の姿は覚えているのに、彼がお袋を襲っているところは見てないんだよ。だからひょっとしたら、彼は犯人じゃないかも知れないって・・・・」
「違うよ。彼、霜月勤(しもつき つとむ)は、すぐにアパートから逃げたんだ。その後を夏子さんは深追いしすぎて殺された」
「篤・・・・」
俺は目を瞠った。
「君は救出されたとき、上半身にかなりの血を浴びていた。霜月のね。目の前で繰り広げられた惨劇と、君を守ろうとして包丁を片手に犯人に向かったお母さんの姿だけを見て、或いは勘違いをしたのかもしれない。お母さんを見て怖かったんじゃない?」
「ああ・・・怖かった・・・」
篤は俺を、先ほど強く握りしめていた、怪我をしていない方の手で抱き寄せてくれる。
俺は傷を刺激しないようにそっと篤の右肩へ、額だけ軽く載せた。
薬品の匂いの間から僅かに嗅ぎ取ることができる、篤の匂い、篤の体温・・・彼の存在がいつも俺を安心させてくれる。
「君のお母さんはね、本当に勇敢だったんだ。君を守りたい・・・・その一心で、幼い君へ接近していた霜月に、華奢な女性の身体で立ち向かっていった。君を生んだとき、僕たちと同い年だったのにね」
そうだ・・・誕生日を超えて、篤も17になった。
あと半年もすれば、俺はお袋の年齢を超える。
「ごめんな、篤」
「ん?」
「そんな野郎と篤を間違えるなんて、俺・・・本当、どうかしてた」
俺を抱き締める手に力が入るのがわかる。
「それは・・・仕方ないんだよ。犯人は・・・そういうことをたぶん君に・・・いや、まあそこは確かにショックなんだけど。それより秋彦はもう平気?」
少し身体を放すと、篤は俺の顔を覗きこんできた。
「え・・・、ああ、まあ全然」
篤は確かに何かを言いかけて、やめていた。
小さなひっかかりを、俺は意識する。
けれど、彼の黒目がちな優しい目に見つめられて、俺は心が穏やかになり、愛しさが胸に溢れて来るのを止められなかった。
もう二度とこんな間違いは犯さないでおこうと、自分に言い聞かせる。
「僕が・・・・怖くはない?」
篤の声が僅かに震えている。
不安にさせてしまったのだと後悔する。
「怖くねえよ。本当に大丈夫だから」
「よかった・・・・」
そう言って、篤はもう一度俺を引き寄せると、今度は最初から強く抱きしめてくれた。
「君が体験した恐怖や悲しみを、僕は英一さんや君から聞いた話でしか知ることができないけど、できることなら僕はずっとそばにいて一緒に背負って生きていきたい。そして君が心に受けた傷を僕が癒して、同じだけ・・・・いや、それ以上に君に愛を与えたいんだ。ねえ秋彦、僕はずっと君と一緒にいるから、君を絶対に守るからそれを忘れないでいてくれる?」
「馬鹿野郎・・・俺は男だぞ」
守られるなんて、まっぴらごめんだ。
なのに・・・そう言われて嬉しい自分に俺は気付いていた。
まったく、俺ときたら・・・。
「わかってるよ」
篤から少し身体を放すと、もう一度彼の目をじっと見据えた。
俺をいつも慈しんでくれる優しい瞳。
俺をまっすぐに映し出す黒い瞳。
迷いのない、澄んだその瞳。
彼の言葉に嘘や偽りなんて微塵もないことは確かだ。
でも、・・・だからこそ、聞いてほしい。
「本当にありがとうな。・・・・ぶっちゃけ俺も小さかったから、実はやっぱりよく覚えちゃいない。覚えてないぶんだけ、いつまた何の拍子にこういうことが起きるか、自分でもわからないんだ。こんなことは俺の知る限り初めてだったし、でも冴子さんや英一さんに聞いたら、ひょっとしたら前にもあったのかもしれない」
「冴子さんの様子から言って、僕もそうだと思うよ」
あの取り乱し方は、尋常じゃない。
あいつが・・・霜月が釈放されたときに、台所で泣き叫んでいたあの夜に少し似ている。
事件は俺だけじゃない、冴子さんの心も深く傷つけているのだと今更ながらに思う。
「聞いてる限りじゃ、俺はけっこう重そうだしな・・・」
つい、他人事のように言ってしまっている自分に気が付く。
しかしフラッシュバックが起きている間の俺の様子は、こうして後から聞かされる話や、周りの様子からしか窺い知ることができない。
それでも俺が恋愛のパートナーとして年相応に楽しめる相手じゃないことはよくわかる。
何かの拍子にいつ心が壊れるかもわからない相手は、同性というだけでなく厄介な筈だ。
まして篤は、将来一条グループを背負って立たないといけない。
俺は・・・・どう考えても相応しくない。
「・・・・・」
彼は黙って俺を見つめている。
「篤・・・、本当に俺なんかの傍にいてもいいのか?」
相応しいわけがない・・・わかっているのに。
「今更何を。僕がそうしたいって言ってるんだよ」
即座に篤に返されて、俺はこんなに安心している・・・。
「お前が俺を好きでいてくれることは知ってるし、俺もお前が好きだ。ただ、またこんなことが起きると・・・・」
お前の負担になりたくないのに・・・。
「君が何かを抱えていることは、前からなんとなく気付いていたよ。・・・・だから僕の覚悟は今言ったとおり。これはもう決めたことだから、たとえ君が嫌だと言っても・・・・・仮に峰が好きになったと言われても、変わらないよ」
「篤っ!」
どうしてそこで峰が出てくる!!
「僕の存在がもしも君のトラウマを刺激する原因だと言われたとしてもね・・・」
「・・・・・」
どこまでも迷いのない瞳が静かに俺を射抜いていた。
「僕はもう、君を放さないと決めたんだ」
「篤・・・」
俺も・・・やっぱり篤と離れたくはない!
「君は永遠に・・・僕の物だ」
ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
俺は腕を伸ばして彼の首へ回すと、その深い口付けをしっかりと受け止めた。


to be continued


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