高校を卒業して大学へ進み、そして将来・・・・僕が一条仁(いちじょう ひとし)の一人息子である以上、避けることが難しい進路。 日本へ戻り、僕は真っ先に彼と会った。 「待てよ、篤!」 冷静さを失った僕は秋彦の部屋から出て行こうとした。
当たり前のようにそこへ向かってレールが敷かれている、父の後を継ぎ、一条建設の代表取締役となり、グループの総帥となるのであろう、自分の未来に疑問はない。
しかしそれは現在の父がそうであるように、今以上にマスコミの標的となり、僕の生活圏に息づく人たちのプライベートを侵すかも知れないことも意味している。
僕は慣れているが、秋彦はそれに耐えられるだろうか・・・。
興味本位に僕らの関係を暴かれて、チューファ市長の娘で女優のリタとのゴシップがそうであったように、悪趣味な捏造記事まで創作され喧伝される・・・そんな屈辱を、できれば秋彦には味合わせたくない。
仮にマスコミの目から彼の存在を隠すことが可能だとしても、一条グループを僕の代で終わらせていいのかという問題もある。
僕に後継者がいないとなると代表の椅子を巡って争いが起きるだろうし、その前に父や母が僕に見合いを勧めるだろう。
会社の問題だけではない。
一条の家門だって僕に懸かっているのだ。
結婚・・・それが僕の意志だけでどうにかできる問題ではないことぐらいわかっている。
僕が自分の恋愛を優先させるということは、置かれた立場の責任を放棄するという意味であり、いずれは会社の存続や社員とその家族の生活を危険に晒す可能性があり、一条家直系の血筋を絶つことになるのだ。
そうでなくても、今の一条には諍いが少なくない。
チューファ支社のハビエル・バルケス・モルテが、数名の部下を引き連れて辞表を出したのは、僕らが修学旅行から帰国した日の夜のこと。
表向きは会社に不利益を与えた責任をとる形での自主退職であり、服務規定違反による懲戒解雇となるべきところ、会社が温情措置をとったものだったが、実際は複雑だ。
ハビはチューファ支社長であるセサル・ゴンサルボ・モリーナに対抗する勢力のリーダー格で、フリーライターのインタビューに応えて、マスコミへラストロの政治家、サントス・パンターノとゴンサルボの癒着を匂わす告発を行った。
ゴンサルボは7年前、ラストロに拠点を置くフリオ・ドミンゴ建設(FDC)から我が社がヘッドハンティングをした優秀な人材だが、彼の在籍当時、ラストロ新空港建設工事を巡ってFDC側からパンターノ議員やマフィア幹部へ裏金が渡ったことが判明した。
FDCはそれ以前にも、独裁国家、北マニャナルミノサ共和国への重機輸送事件や、所得隠しなど疑惑が絶えず、3年前に当時の社長以下幹部職を総入れ替えしており、その年の12月、ラストロ地裁は総額約11億4000万に上る脱税事件で元社長と、元役員に懲役刑を言い渡している。
パンターノ議員への裏献金疑惑については現状、議員、FDC側双方とも容疑を否定しているものの、ハビが提供したという証拠資料には事件にゴンサルボも関与したと信ずるに足る情報があり、ハビの忠実義務違反で一蹴できるものではない。
本来であれば徹底的に社内調査を実施の上、万一にも我が社がそうした不正に関わっていないことを確認すべきところ、父はそうせず、よりにもよって直属の上司であるゴンサルボに処分を一任した。
もちんゴンサルボが父の大事な右腕であることは間違いないし、ハビが父や監督官庁ではなく、いきなりマスコミへ社員の個人情報を含めた会社の不確かな不利益情報をリークしことは、なんらかの処分に相当する。
しかしそれが事実無根でなければ、内部告発者の切り捨てで終わらせていいものではないはずだ。
僕の動揺に個人的感情がないとは言わない。
ハビは僕の友人で、従兄である一条達也(いちじょう たつや)の大切な人であり、チューファ支社で起きていた内紛には少なからず僕が巻き込まれていた。
ハビが思い描いていた理想の頂点には僕がいた。
ゴンサルボや彼が引き連れて来たFDCの勢力を社外へ一掃し、チューファ支社の社長の椅子に僕が座る・・・・それがハビの青写真だった。
達也さんからハビの退社を聞かされた僕は、すぐに彼とチューファへ引き返した。
戻った僕らに、ハビはこう切り出した。
「新しい会社を作る。篤達も協力してくれないか」
僕は戸惑った。
起業はともかく、一条が支配しているに等しいチューファを拠点にすれば、失敗が目に見えている。
ゴンサルボがハビを社外へ放出したということは、業界やマスコミへ先手を打ってあると見るべきだろう。
ハビが動けば必ず手を回すだろうし、下手をすると、彼の身に危険が迫らないとも限らない。
だがハビは一条を上回る建設会社を興し、いずれゴンサルボをチューファから追い出すとさえ言った。
その熱意に、僕はなぜか心が躍った。
ハビに協力するということは、現状では一条を敵に回すという意味だ。
僕は父との敵対を望んでいるわけではない。
しかし、一条とハビ達は二者択一でしかないのか?
チューファ支社の内紛を収束して会社を正常化し、ハビ達と協力することは本当に不可能なのだろうか。
僕にできることが、きっと何かある筈だ・・・。
その後1ヶ月かけて僕と達也さんはチューファ支社の様子を探ったが、ゴンサルボの周辺はさすがに緘口令が敷かれており、件のフリーライターも雲隠れしたのか足取りがつかめず、結局真相へ近づくことはできなかった。
しかし彼らもまた一枚岩ではないことや、社内にはハビ達へ同情や理解を示す社員が意外と多いことを知った。
一方で僕はチューファ大の講義へ参加しつつ、来年以降の進路についてもじっくりと考えてみた。
エスパニア語での授業参加についてはとくに問題はなかった。
あとはどの大学で何を学ぶべきか、また一条やハビ達との関わり方について、そして僕にとって何よりも大切な彼との将来について、残りの高校生活で決着をつけないといけない。
1ヶ月はあっという間に過ぎていった。
身体が自然に動き、精神と肉体の両方で彼を欲していた。
だが、ほんの1ヶ月の不在が思った以上の代償となって僕を打ちのめした。
峰祥一。
たった1ヶ月の間に秋彦へ巧みに近づき、彼を惑わした男。
それを許した彼にも僕は怒りをぶつけた。
疲労もあって気が昂っていた僕は感情をコントロールできず、恋人を責めた言葉は、ほぼ言いがかりだった。
秋彦は峰と浮気をしたわけではない。
だが峰と何かがあったことは間違いなく、秋彦はそれを僕に隠した。
些細なことなのに、それが僕には耐えられなかったのだ。
彼の心に棲みついた峰と言う存在を僕は認めたくなかった。
かつて秋彦は、城西(じょうさい)高校の少年に付き纏われたことがあるし、それとて面白くない事実だったが、僕をここまで動揺させはしなかった。
峰はわけが違う。
彼だけは、けして秋彦に近づけてはいけない・・・心が騒ぐ。
僕は峰が怖かった。
その手を秋彦が後ろから掴んでくる。
秋彦も焦っていた。
今し方まで僕と激しい口付けを交わし、その艶めかしい唇で僕に奉仕しようとさえしてくれた恋人。
1ヶ月間、僕はチューファで奔走し、機内でも達也さんと集めた情報の検証に追われて寝ておらず、帰国するなりその足で秋彦と会っていたから疲労はピークだった。
その間セックスはもちろん、自慰さえまったくしていない。
そこへ峰の一件で追い打ちをかけられて、感情はすっかり昂っていた。
こんな状態で、さきほどまで抱こうとしていた秋彦に引きとめられては、僕は彼に何をするかわからない。
乱暴はしたくない。
「放してくれるかい。・・・・君を傷つけたくはない」
彼の顔を見ずに、押し殺した声でそう告げる。
目を見れば、感情に流されそうだった。
そして僕は秋彦の部屋から出て行った。