その日の夕方。 おにいちゃん・・・。 僕を見て、秋彦は確かにそう言った。 延々泣き続け、うわごとのような声は意味をなさず、錯乱していると言って差し支えのなかった秋彦は、達也さんに抱きかかえられて母屋へ向かった。 半ば彼に促されるような形で人気のない庭の池へ向かい、その畔をゆっくりと歩きつつ、僕らはぽつぽつと話を始めた。 ・・・怖いんだよ、篤・・・俺は本当にお前を好きでいてもいいのか? 昨夜秋彦が露わにしたあの不安は、どこから来ていたのだろうか。 「秋彦の母は彼が5歳のときに、殺害されている」
当面の課題であった、秋彦との仲直りは、彼の来訪によってあっさり果たせた。
薔薇の香りには精神を癒す効果があるのか、僕も落ち着いて彼と話し合うことができ、そして・・・。
「お前はどうせそっち目的なんだろ」
「君だって期待してるくせに」
ローズオイルがなくても十分高め合う事ができそうなほど、僕は彼を欲していたし、彼も恐らく同じに見えた。
そして何度も彼を抱いた僕の離れへ行くことになり、薔薇へ水を遣っていたホースを片づけるために一瞬だけ目を放したその間の出来事だった。
「おい坊主、危ないぞ・・・!」
槇へ登って作業をしていた植木職人が叫んだと同時に、僕は走り出していた。
間にあってくれ・・・・!
梯子が秋彦を目がけて倒れ、僕はその隙間へ飛び込み、そして彼の身体を、初めて欲望からではなく押し倒した。
「坊ちゃん!」
痛みは殆ど感じなかった。
地面へ着地した次の瞬間、自分の腕の中にいる確かな感触と、その表情がゆっくりと目を開き僕を見上げる動きを見て、心からの安堵を感じる。
僕は秋彦をどうにか守れたらしい。
愛しさがこのうえなく募っていた。
そしてつまらない意地を張っていた自分が滑稽に思え、己にとって何が一番大切なのかを思い知った。
秋彦・・・君が傍にいてくれないと、僕は生きていけそうにない。
だが、次の瞬間、愛しいその存在は微かな呟きの後、これまで聞いたことがない悲鳴をあげていた。
・・・・その目は僕をまっすぐに見つめ、恐怖で歪められる。
おにいちゃん・・・・それが誰を差すのか。
何を意味するのか。
僕は直後に知ることになる。
悔しかったのは、その視界からおそらく僕が消えたとたんに、秋彦が落ち着きを取り戻し始めたことだった。
僕が彼を怖がらせていた。
植木職人が呼んだ救急車へ乗せられて、僕は女子大付属病院で怪我の処置を受ける。
レントゲン撮影の結果、左手首の骨にひびが入っており、その肩から腕にかけても大きな裂傷を作っていて、5針を縫った
手首はギプスで固定され、暫くは不自由な生活を約束されそうだった。
暗くなってから自宅へ戻ってみると原田夫妻が来ており、秋彦の伯母である冴子(さえこ)夫人が僕に気付いて軽く会釈をしてくれたあと、押し黙ったまま秋彦を庇うように、車へ乗せてうちを後にした。
まるで僕から秋彦を守ろうとしているような、その動きに少なからず傷つく。
そして僕の存在が目に入ってすらいなかったのであろう、虚ろな秋彦の様子が、それ以上のショックだった。
彼は、何を感じ、どんな恐怖と闘っているのだろうか・・・・それは僕が与えてしまったものなのか。
「ちょっといいかな、篤君」
冴子夫人の車がすっかり見えなくなってから、どのぐらい玄関前でそうしていたのだろうか、ぼんやりとしていた僕は背後から声をかけられて小さく息を呑む。
まだ帰宅していなかったらしい、画家で秋彦の伯父である原田英一(はらだ えいいち)氏が、ニッコリと微笑みながらそこに立っていた。
まずは怪我の具合を聞かれて、僕は正直に話し、続いて秋彦を庇ったことに対して感謝の言葉を彼から受ける。
自分の恋人を庇ったことで誰かにお礼を言われるという事は、どうにも違和感があり、僕が戸惑っていると、それに気付いた原田氏が苦笑を漏らした。
彼は軽く息をひとつ吐きだすと、徐に秋彦の生い立ちに関して、僕がどの程度を知っているのかと質問してきた。
「生い立ち・・・ですか」
僕は秋彦が早くに両親を失っているということしか知らず、だが彼がときおり見せる不安げな表情から、その経緯が普通ではないのだろうと推測をしているに過ぎない。
僕は正直にそのままを話した。
「なるほど・・・まあそんなもんかな。秋彦自身、詳しいことは知らない筈だからね」
秋彦は、知らないのか・・・・。
それなら、何かの拍子に彼が見せるあの頼りない様子には、一体どう理由があるのだろう。
お前に溺れていいのか?
ある日突然・・・俺を置いて消えたりはしないか?
留学することを打ち明けたときにも、彼は必死に強気を装ってはいたが、ずいぶん取り乱していた。
突然だったとはいえ、次の春には高校を卒業するはずの男が、ほんの1ヶ月の別離で泣いたりするものだろうか。
あらためて考えると不自然だった。
両親の他界が彼の不安定な精神状態と深く関係していることは察しが付く。
だが、それを肝心の秋彦がよく知らないというのは、どういう意味だ・・・・一体、何を知っていて、何を知らないというのだ。
「・・・・・」
いきなり核心を突いてきたような、原田氏の言葉に、僕は強い衝撃を受けて声を失くした。
だが、それは真相の、まだほんの一端に過ぎなかった。