「彼の父はすぐに妻の後を追って自殺を図り、息絶え、首を吊ったままの父親の遺体と二人きりで秋彦は、一週間もの間アパートの部屋で過ごしていたんだ」
「そんな・・・」
あまりに残酷なその過去に、僕は思考が追い付かなかった。
そんな話があるっていうのか。
いくら妻を殺害されたからといって、幼い息子をひとり残して自殺するなんて、父親ともあろう男が無責任じゃないか。
だが、事情も知らない僕が後から非難するのは、たぶん筋違いなのだろう。
「秋彦は・・・そのときのことを覚えているんですか」
5歳と言っていた。
微妙な年齢だ。
「いや、なんとなくは覚えているようだけど、しっかりした記憶は残っていないみたいだ。・・・・ただ、さっきのショックでどれだけ思い出したのかはわからないけど」
僕は少し安堵した。
それほど残酷な思い出なら、覚えていないに越したことはない。
「彼の母親は、なぜ殺されたんですか」
「夏子(なつこ)ちゃんは・・・・彼の母親はワルキューレという店の看板イメクラ嬢でね、17歳で秋彦を生んだんだ。父親の冬矢(とうや)君・・・ちなみに冴子さんの弟にあたる男なんだけどね、彼は当時19歳。二人はたまたま冬矢君が悪友に連れられて店へ遊びに行ったことがきっかけで知り合った。当時すでに親父の会社で役員として仕事をこなしていた冴子さんと冬矢君は、あの頃しっくりと行っていなくてね、将来について漠然とした不安を抱いていたみたいだ。まあ19歳ならそんなに思い悩む必要もなかったと思うんだけど、年が離れていたとはいえ、冴子さんがああいう人だからね、しょっちゅう電話で喧嘩していたのを覚えている」
知らなかった秋彦の家族像について、次々と明かされてゆく事実。
看板イメクラ嬢をしていたという母、しっかり者の姉にプレッシャーをかけられていた父・・・年若い夫婦がもしも生きていたなら、どんな生活が待っていたのだろう。
恐らく金がかかる城陽に彼は通わず、泰陽(たいよう)市に住んでいたなら、公立校の城西あたりに通っていただろうか。
きっと今よりも、もっと平均的な人生が彼を待っていた・・・そんな気がする。
それはやはり、彼にとって今よりも幸せだったに違いない筈で、ひょっとしたら僕とも出会っておらず・・・そう思いかけて、チクリと胸の痛みを感じる。
僕は、酷いことを考えている。
「あるとき冴子さんと大喧嘩をした冬矢君は、偶然に仕事帰りの夏子ちゃんと会ってね、彼に同情した夏子ちゃんのアパートへ行き、そのまま二人は同棲を始めた。やがて彼らに子供が出来て、夏子ちゃんは仕事を辞めざるを得なくなった。けれどその事実は冬矢君に父親の自覚を与え、彼は大学を中退すると働く決心をしたんだ。冴子さんは冬矢君の人生を狂わせた夏子ちゃんを恨んでいたけど、少なくとも僕の目には当時の冬矢君は生き生きしているように見えたよ。たとえそれが運送屋と清掃のかけもちアルバイトでもね。守るべき家族を得た冬矢君は、やっぱりあのとき幸せだったんじゃないかな・・・」
当時を懐かしむように優しい表情を見せる原田氏を、僕は羨ましいと思った。
この人は秋彦を生まれる前から知っていたんだ・・・。
そんな当たり前のことが、僕には越え難い壁として立ちはだかっているように思えた。
そして、無意識に口走っていた。
「だったらどうして・・・」
「ん?」
のほほんと原田氏が聞き返す。
「なんで彼の父親は秋彦を見捨てたんですか」
一週間も実の父の死体と二人きりで秋彦は過ごした・・・僕には到底受け入れ難い事実だ。
秋彦を愛していたなら、どうして妻の死を乗り越えてくれなかったのか。
なぜ後を追ったりしたんだ。
「さあね・・・そればかりは僕にもなんとも」
「・・・・・」
当然だ。
この人だって、死んだ人間の情緒まで知っているわけではない。
答えが得られず歯噛みする僕の青さを呆れるでなく、嘲笑うでもなく、原田氏はのんびりと返事をすると、さらに話を続けた。
「とにかく、新しい家族・・・秋彦を得てからというもの、冬矢君は昼夜を問わず、仕事に精を出していた。学歴を捨てた彼には、若さと体力しかなかっただろうからね。必死だったんだろう。夏子ちゃんは秋彦とアパートに残されるようになる。まだ17歳でしかなかった夏子ちゃんには育児の相談ができるような、いわゆるママ友達もおらず、いつも秋彦を連れて城西公園でよく時間を潰していたらしいよ」
「この辺りに住んでいたんですか」
「うん。・・・ああ、言ってなかったか。彼らの家は城西公園の東側に面した2階建ての木造アパート・・・といっても、とっくに取り壊されているけどね。夏子ちゃんの店があったのは臨海公園駅バス停近くの繁華街だよ」
「・・・・・・・」
なんてことだ・・・・5分と離れていない場所に住んでいたなんて。
しかも城西公園は僕の部屋からでも見える位置にあるし、その東側なら尚更近いじゃないか・・・・そんな場所で、秋彦は1週間も・・・・。
言われて尚も思い出すことすらできない2階建てアパート・・・・昔の話とはいえ、漠然と景色の一部としてしか見ていなかった己の愚鈍さに腹が立った。
「そのうちアパートには夏子ちゃんの馴染み客が押し掛けるようになり、彼女は思い悩んだ。そんな彼女に声を掛けて来たのが、・・・霜月勤(しもつき つとむ)」
「えっ・・・・」
原田氏はそこだけ声の響きを変えていた。
そんな声が出せるのかと驚くほど低く、まるで別人と入れ替わったかのごとく冷淡に、その名前を口にする。
霜月勤。
どういう男なのだろうか。
「霜月は当時、彼らの近所に住んでいた大学生で、ベビーシッターのアルバイト経験があった。あるとき公園の砂場で転び、膝に大きなガラスの破片が突き刺さって大怪我をした秋彦に霜月は手を貸し、動揺しきっていた夏子ちゃんも一緒に車に乗せて、病院へ連れて行った。出血が酷かった秋彦の腿を自分のベルトで縛り、その応急処置が適切だったお陰で大事には至らずに済んだ。その後も通院のために二人を乗せて病院へ付き添い、秋彦はすっかり霜月に懐き、夏子ちゃんも心を許していたらしい」
「そうですか・・・・」
話に聞く限りは秋彦の恩人で、良い人物に聞こえるのだが、霜月と呼び捨てる原田氏の声の調子はあくまで冷たかった。
「霜月はしょっちゅう城西公園で秋彦と遊ぶようになった。夏子ちゃんはときおり霜月に秋彦を預けて、スーパーへ買い物に行ったり、家事を片づけたりしていたようだ。だが、やがて秋彦の様子に異変を感じ、夏子ちゃんは霜月から秋彦を遠ざけるようになる」
「・・・・・・・」
嫌な予感がした。
霜月・・・・この男はけして優しいだけの人物ではなかったのだろう。
「それでも秋彦にとって霜月は、あくまで仲の良い近所のお兄ちゃんだったようだ」
「おにいちゃん・・・」
何かがひかかった。
この言葉を僕はどこかで・・・・。
「あるとき夏子ちゃんが目を離した隙に秋彦はいなくなり、城西公園で秋彦と遊んでいた霜月に彼女は暴言を浴びせて、泣き叫ぶ秋彦をアパートへ連れて戻った。・・・けだもの、二度と近づかないで、・・・・警察への証言によると、彼女は霜月にそう言ったらしい」
「警察・・・」
まさか、その男は・・・・。
ふと原田氏が言葉を切って僕を見た。
「大丈夫かい。気分が悪そうだ・・・もうやめておくかい?」
声を掛けられて自分を恥じた。
まったく、どんな顔をしていたのやら。
ずっと秋彦を見守ってきた原田夫妻の心労は、こんなものではなかっただろうに。
心の中で、己の頬を張り倒す。
「続けてください」
「本当に?・・・・ここからが多分きついよ」
「大丈夫です」
受け止めて見せる。
秋彦の人生のすべてを。
前置きをした原田氏は、それまでと同じ調子で続きを語り始めた。
足元に落ちる黒い影。
いつのまにか常夜灯が白いライトで辺りを照らしていた。
もうすっかり暗くなっている。
「その晩夏子ちゃん達のアパートへ霜月が訪れた。彼女の言葉に傷ついた霜月は謝罪を求め、夏子ちゃんはそれに応じなかった。冬矢君は仕事で家におらず、一向に帰ろうとしない霜月に彼女は徐々に恐怖を感じ始めたことだろう。声を高く言い争う二人の様子に、部屋の奥から泣きべそを掻いた秋彦が姿を現し、動揺した霜月は、彼曰く秋彦を宥めようとして近づいたそうだ。勝手に家へ入られたことや、秋彦へ接近した霜月の動きに夏子ちゃんは取り乱し、台所から文化包丁を持ち出して、彼女は霜月へ切りつけた」
「えっ・・・」
秋彦の母親が、切りつけた・・・のか?
「咄嗟に避けた霜月の肩の辺りを刃は掠め、霜月は痛みから秋彦へ覆い被さるような体勢になった。それを見て夏子ちゃんは一層パニックを起こし、包丁を構えると再び霜月に向かった。二度目の傷は先ほどより深く脇腹を抉り、結構な出血を現場に残していた・・・・、至近距離にいた秋彦は、頭から霜月の血を浴びたようだね」
「それってつまり・・・」
倒れて来る梯子から秋彦を守るつもりで彼を押し倒し、梯子で肩口を切って僕に圧し掛かられた秋彦が、落ちて来るその血の雫を受けた・・・・まさか秋彦は、あのときの僕と霜月を混同したのか?
「悪い偶然だったね・・・・」
「僕のとった行為が、秋彦の記憶の奥底から辛い過去を呼び起こした・・・・そういうことだったんですね」
「だが、君は秋彦を守り、霜月は・・・結果的に秋彦の家族をバラバラにした」
歯切れの悪い物言いだった。
「彼がその後、秋彦のお母さんを・・・?」
僕の質問に原田氏は苦笑を見せると、聞こえなかったかのように同じ調子で話を続ける。
つまり無視だ。
「霜月は脇腹の傷を抱え自分のアパートへと引き返した。だがその晩、夏子ちゃんは秋彦を残していなくなり、翌朝城西公園の茂みで遺体が発見された」
「・・・・・」
「遺体は後頭部を強打されており、近くに凶器と思われる直径20センチほどの大きさの石が、彼女の血液と毛髪を付着した状態で発見されている。その近くに文化包丁も残されており、包丁にこびり付いた血と、現場へ無数に残されていた血痕からすぐに霜月が逮捕された」
やはりそうか。
「それじゃあ霜月が犯人なんですね」
原田氏は静かに首を横へ振る。
「・・・・?」
どういうことだ。
「しばらく取り調べを受けたが、結局警察の判断は動機不十分。霜月には夏子ちゃんを殺害するだけの理由がなく、秋彦へ近づいたのも善意以外の何物でもない・・・そういう判断だったらしい」
「そんなっ・・・・けれど、秋彦のお母さんは石で後ろから強打されていたんですよね!?」
「揉み合いになった末の事故、あるいは正当防衛。夏子ちゃんが包丁を手にしていたことから、そう判断されたのは・・・仕方がないよ」
「あっ・・・」
たしかにその通りかもしれない。
だが、何か釈然としない・・・それは秋彦が僕の恋人で、彼があれほどまでに取り乱す姿を見てしまっているせいなのだろうか。
しかし、殺されたのではなく事故だったのだとしたら・・・その方が、まだ彼の心は救われ、母親の死を受け入れやすいというものではないだろうか。
だとしたら、この原田氏の冷ややかな口ぶりは一体・・・。
「それから1週間ほど経って、アパートの大家さんからうちに連絡が来た。近所の住人が、子供が泣きやまない、虐待を受けているのではないか・・・そう通報したらしい。合鍵で部屋を開けてみると、排泄物の異臭が立ち込める中、痩せこけた秋彦が必死に何かを訴えるように泣いていて、目の前には変わり果てた姿の冬矢君が柱からぶら下がっていたらしい。僕らが駆け付けた時は、すでに警察が遺体を引き取ったあとだったけどね・・・・あの光景は今でも忘れられない。この世の悪夢だったよ」
「・・・・・」
そんな中、秋彦は・・・。
「夏子ちゃんの事件でまだ霜月が取り調べを受けている最中だったから、事件性ありということでアパートの部屋も捜索された。だが柱へ無数に打ちつけられた釘と、そこにロープを渡して首を吊っていた冬矢君はどう見ても自殺で、秋彦の顔を汚していた血痕も、霜月の証言と整合性がとれるものだった。警察の見解は近所の住人としての好意から霜月は秋彦へ近づき、馴れ馴れしい彼に恐怖を感じた夏子ちゃんが凶行に出て、正当防衛から霜月は夏子ちゃんを死なせてしまう。妻を突然失った冬矢君は絶望し、秋彦を残して自殺。大筋はそうなんだろう。・・・・・けれどこの中で警察が軽く見た事実がひとつある。それは秋彦の衣類からいくつも検出された精液だ」
「何っ・・・!?」
「型は冬矢君とは一致しない・・・・それが霜月のものかどうかまで僕らには知らされなかったが、確かめるまでもないだろう。夏子ちゃんがなぜ、突然霜月から秋彦を遠ざけようとしたのか。部屋に入り込み、秋彦へ接近した霜月に包丁まで持ち出して追い返そうとしたのはなぜか、・・・・・彼女は霜月を追い掛けさえした。夏子ちゃんは一体どういう事実を知ってしまったのか・・・・・その一つのヒントが、秋彦の衣類に付着した精液のはずだったんだ。形だけみれば確かに夏子ちゃんは正当防衛により殺された・・・そうかも知れない。けれど、霜月が易々と釈放されていい筈がないんだ!」
「・・・・・・」
僕には夏子さんの気持ちが、拳を震わせ怒りにじっと耐える原田氏の心の痛みが、手に取るようにわかった。
そして、17年間の人生の中で、初めて人に殺意を抱いた。
霜月勤・・・・僕はこの男に出会ってしまったら、自分が抑えられるかどうか、自信が持てない。

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