2.『登校』(江藤編)



「ったく、無茶苦茶しやがって・・・」
早朝から容赦なく身の上に起こったDVに、うっすらと赤く腫れあがってしまったこめかみを押さえながら、俺は緩やかな坂道を歩く。
「あ、あんたが変なこと言うからでしょう!」
途端に、5メートルほど前を進む長い影が立ち止り、うしろを振り返って、反論した。
その声は僅かに震えて、いつもよりも高い。
顔はおそらく真っ赤だろうが、残念ながら表情は眩しい逆光に溶け込み、拝むことができない。
あれから慌てて制服に着替え、指定ジャージだけを収めた鞄を肩から提げながら階段を駆け下り、江藤が待っている玄関へ出てみると、キッチンから聞こえてきたニュース番組の、時報を伝えるアナウンサーの声に俺は一旦足を止めた。
江藤の言い分から、てっきり8時を回っているのかと思えば、まだ1時間も早い。
体育祭開始は9時半であり、その前に平日同様、ショートホームルームがあるとはいえ、7時に家を出る必要などない筈だ。
朝っぱらから叩き起こされた理不尽を非難して、玄関先のまだ頬の赤さの収まらぬ江藤より、どうやって謝罪の言葉を引き出してやろうかと考えていると。
「あんた里子ちゃんにこれを貸す約束をしていたんでしょう? 寝坊した上に、忘れてどうするのよ」
そう言いつつ、キッチンから、伯父、原田英一(はらだ えいいち)から貰った三脚を収めているキャリーケースを持って、冴子さんが現れた。
そこで俺は本当に漸く、自分がすっかり江藤との約束を失念していたことを思い出したのだった。
「悪かったな、江藤」
「やだ、・・・何急にしおらしいこと言ってんのよ、もういいわよ。・・・あたしこそ、乱暴にしてごめんなさい」
「いや、まあ、俺が原因なわけで」
ベッドの横に立って、上から自分を見下ろす江藤の顔を、俺は思い浮かべながら言った。
何はともあれ、ギャルゲーの幼馴染ルート染みたイベントを朝から味わえたのは、それはそれで結構な気分だった。
「そこでニヤくな、この馬鹿!」
「ニヤついてません、けして・・・」
心の中で己の頬をぶん殴って喝を入れると、どうやら少しだけ機嫌を戻したらしい江藤の小さな背中を追って、俺も遊歩道に入った。
まだ人気が少ない、日曜の朝の国立公園。
まして制服姿は俺と江藤の二人だけだった。
江藤に三脚を貸す約束をしたのは、昨日の登校中のこと。
卒業アルバム制作班の班長に決まった江藤は、今日の体育祭でクラスメイト達を撮影することになっていた。
そこで、三脚を持っていないという江藤に、俺の方から提案したのだ。
それを忘れていたなんて、今思えば本当に悪かった・・・。
動きの多い体育祭なら絶対にあった方がいいから、貸してやると、俺は江藤に言った。
ところが、三脚を使った撮影をしたことがないらしい江藤が、それなら少し練習をしたいと言うので、経験者の俺が指南してやろうと偉そうなことを自分から申し出た。
だったら7時に迎えに行くと江藤が言って・・・そして放課後にはそんなこともすっかり忘れて、今朝まで思い出すことすらできなかった俺は、朝っぱらから江藤の奇襲を受けた・・・・と、こんな流れになるわけだ。
三脚は中学のときに、一眼レフとセットで英一さんから貰ったものだった。
特別新しいものではなく、あちこちに擦り傷の目立つ、充分に使いこまれた上質の中古品だ。
子供の頃、仕事の合間に旅先で英一さんが撮ってきた写真を、ときどき見せてもらっているうちに、俺がカメラを欲しがってプレゼントして貰ったのだ。
最初は小さなデジカメを買ってもらった。
しかし写真の出来に納得がいかず、それをカメラのせいだと思った俺が英一さんと同じ物を欲しがった。
そうしたら、「じゃあ中学に上がったらこれを秋彦君にやろう」と、約束してくれた。
その2年後、城陽(じょうよう)中学に入学したばかりの俺は、自分のカメラを新調するという英一さんから、彼によって使いこまれた一眼レフを本当に貰った。
「いい写真が撮れたら、見せてね」
そんなメッセージカードを、1枚添えて。
結局俺は、今に至るまで、そのカメラで撮影した写真を一度も見せていない。
露出とかISOとか、解説書を読んでも理解出来ず、現像した写真は英一さんが見せてくれた写真とは程遠い出来のものばかりで、俺のカメラ熱は急速に冷めてしまった。
ピンぼけの真新しい自転車や、ブレまくった猫の写真と共に、一眼レフは机の下の抽斗へ仕舞いこまれ、嵩張る三脚はクローゼットの奥で長い眠りに就くことになった。
それでもカメラだけは、ときどき思い出したように使っていたものの、やはり最初に買ってもらったデジカメの方が使いやすくて、次第に一眼レフの存在は忘れられるようになったのだ。
それを思い出させてくれたのが、昨日の江藤との会話だった。
話の勢いで江藤には、三脚を貸してやると言ったものの、その後、1限目の授業中、果たして俺の部屋のクローゼットに仕舞ったのか、それともリビングだったのかが、はっきりと思い出せず、帰ったらちゃんと探さないといけないと考えていた。
それにも拘わらず、放課後には江藤との約束そのものを俺は忘れてしまっていたのだ。
今朝、冴子さんが三脚を持たせてくれたということは、結局リビングのクローゼットに仕舞っていたということなのだろうが、それも俺が中学の頃に使って以来仕舞われていたのだとすると、けしてわかりやすい場所に置いてあった筈はなく、朝っぱらから冴子さんは三脚を探してクローゼットを引っ掻きまわしてくれた筈だ。
これは帰ったら、ちゃんと謝らないといけない・・・。
「何よ、黙りこくっているかと思ったら、不意に溜息なんかついたりして」
「いやまあ、色々と我が半生を省みて、恥じいることばかりだと思いまして」
それにしても、早朝から、うら若き男子高校生の部屋へ本人の許可なく、訪問してきた処女をいきなり通すとは、冴子さんめ。
うっかり勃っていたら、どうしてくれるつもりだったんだ。





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