2.『開会式』

いつも通りのホームルームを済ませた後、グラウンドへ集合する。
午前9時半、定刻通りに城陽(じょうよう)学院高等学校第76回体育祭、『蒼天祭』の開会式が始まった。
グラウンドの東側に設置されている一般来場者席は、既に半分程が埋まっていた。
「里子、頑張りなさ〜い!」
先頭列に陣取っている江藤に良く似た小柄な中年女性が、手を振って来た。
「も〜うっ・・・お母さんったら、恥ずかしいっ・・・」
江藤が小声で毒づく。
「返事してやんなくていいのか?」
隣から俺のジャージの袖を摘まんで来る本人に聞き返した。
やや後ろから、俺の腕の付け根辺りに埋めるようにしている江藤の顔を覗きこむと、猫のピン留で前髪を持ちあげたその生え際が真っ赤に染まっていた。
緊張しているのか、江藤はさきほどから口数がすっかり減っている。
そういえば江藤はもともと、上がり症だったことを思い出した。
入場行進前からこれでは、競技のときに大丈夫なのだろうか。
とりあえず反対側の腕を上げ、俺にしがみついたままの小さな背中を、掌でポンポンと叩いてやる。
そんなもので緊張がほぐれるかどうかは知らないけれど。
すると。
「おいおい、姉ちゃん、親の前であんまり見せつけんなよ〜!」
同じ方向から、野太い男の声が飛んで来て、俺は心臓が止まりそうになった。
そこには江藤のお袋さんと並んで、若い男が、わざわざ口元を両手で囲んで、声を反響させながらこちらを冷やかしていた。
この逞しい男は誰かと一瞬思ったが、江藤が即座に答えをくれる。
「ばっ、ばかっ! 直黙りなさいっ・・・!」
言うと同時に、江藤が慌てて俺から離れると、席の方へ向かって拳を作り振りまわしていた。
「げっ・・・マジで?」
俺は気が遠くなった。
江藤直(えとう すなお)。
今年城陽中学に上がったばかりの江藤の弟が、確かにそういう名前だった。
年が離れているため、学校で俺達と顔を合わすことはめったになかったが、俺も何度か江藤の家へ遊びに行ったときに直接会っており、江藤に良く似た顔をした小柄なその少年から、サッカーや剣道、ゲームなどの対戦相手をしてくれとせがまれて、一緒に遊んでやった覚えがある。
ただし剣道は1度だけ相手をしたきりだが。
とりあえず、俺の記憶にあるかぎり、直は桃のような柔らかいピンクのほっぺと紅葉の掌が愛らしい子供であり、或いは、俺にキラキラとした憧憬の眼差しを向け、リフティングを教えてくれと、ボールを抱えて腰に纏わりついてきた、手足のほっそりとしている、好奇心旺盛な少年だった。
けして俺と同じような、下手をすれば俺より逞しい体格を持ち、彼の父親と同じような太く男らしい両眉と、頬に憎たらしいニキビを作っている、汗臭そうな野郎のことではなく・・・。
一瞬直と視線が絡み合う。
「アキお兄ちゃ〜ん、頑張ってねぇ〜」
野太い声のニキビ野郎が俺に、昔と変わらぬその呼び方のまま、あの頃と同じ熱視線を送ってくれた。
頼むから呼び方だけでも早急に改めてもらいたい。
「あんたには、相変わらず懐いているわね・・・」
こっちは、どう聞いても雄々しい野郎の声でそう呼ばれて、嬉しいわけないのだが。
「あんなに可愛い少年だったのにな・・・」
すっかり男になりやがって、畜生め。
ちなみにこの成長の早い弟は、奥手の彼の姉の報告によると、中学最初のこの夏休みにさっそく彼女ができたらしい。
姉と同じく剣道の猛者であり、中学では柔道部に所属し、厳格な彼らの父親によるスパルタ教育の元、文武両道を守っている直なら、まあ当然なのかも知れないが・・・。
それにしてもまったく13歳で彼女持ちとは、・・・どこぞの誰かの思い出話を聞いているようで嫌になる・・・。
トラックの外で待機している俺達へ向けて、近所の一般席からしつこく冷やかしてくる直。
放っておけばいいものを、それをいちいち江藤がやり返すものだから、直も冷やかし続け、そのやりとりがすっかりクラスメイト達の笑いを誘っていた。
そして上がり症の江藤本人からは、いつのまにか緊張がとれていたようだった。
直、グッジョブだ。
江藤家からの応援はこの2名のみ。
県警捜査一課長の江藤達の父親は、非番ではなかったようで、姿が見えず、少しホッとする。
さすがに父親の前で、あの直の冷やかしを受ける勇気は、俺にはない。
江藤のお袋さんと直の少し後ろにも、見覚えのある女性が座っていた。
艶やかな長い髪の毛先を綺麗にカールさせ、白いパフスリーブのワンピースと素足のサンダルが目を引く、藤色の日傘を手にしたこの美しい女性・・・記憶に間違いがなければ、峰祥一(みね しょういち)、まりあ兄妹の母親、峰佳代子(みね かよこ)だ。
こうして遠目に見ると、とても40を過ぎているようには見えず、清楚で上品な美人という印象で、年をとればまりあちゃんもこんな感じの女性になるのだろうと容易に想像が付く。
その隣には茶色のハンチング帽に黒縁の眼鏡を掛けている男性が座っていた。
一瞬峰の親父かと思ったが、こちらの紳士にも見覚えがある気がして、よくよく思い出してみると、それは西峰寺(さいほうじ)の御住職だった。
ということは、峰の伯父、峰幸恕(みね こうじょ)だ。
他に連れらしき人は見当たらない。
「親父さんは来てないのか?」
後ろに立っていた峰に聞いてみる。
「ああ、今日あたりは多分、祖父さんとタイだ」
「タイ? タイってあのアンコールワットのか? そうか、お前の祖父さんってルポライターだっけか・・・」
峰の祖父こと峰祥隆(みね しょうりゅう)は、元々は西峰寺の先代住職だったが、長男である現住職にさっさと引き継がせ、今は趣味と実益を兼ねてアジア中を飛び回っては、紀行文を書いたり、仏教関係の本を執筆したりしている。
峰の父親、峰優一(みね ゆういち)氏もしょっちゅう祖父さんに付き添って各地を飛び回っており、活動的な彼らの母親ともども滅多に家にいないようだが、親父さんの本業は確か税理士だった筈だ。
西峰寺の税務関係も親父さんがやっていて、時期によってはずっと西峰寺の寺務所に籠っているらしいのだが、俺はまだ会ったことがない。
「今回はテレビ番組の収録があるらしい」
峰が教えてくれた。
祖父さんのことである。
ケーブルテレビの教育番組で、仏像や遺跡、地元文化などを紹介するのだそうだ。
「相変わらず、凄いなお前の祖父さんって・・・」
60を過ぎて精力的というか、快活というか・・・孫は10代で悟りを開いたような、地味な性格をしているというのに。
「よくわからんが、そうなのか? とりあえずアンコールワットはカンボジアだからな」
ついでに言うと、祖父さんも峰そっくりの凄まじいイケメンで、とてもこんな大きな孫がいる男には見えない若々しい風貌なのだが、元住職にもとても見えない人だ。
隠居後はテレビや雑誌に出ているせいか、にこやかな話上手で、華やかで明るい雰囲気を持っていて、・・・そういう点では、変な話だがむしろ一条篤(いちじょう あつし)とイメージが似ている。
仕事柄アジアを中心に旅していることが多いせいか、いつも日に焼けていて筋骨隆々とした、サングラスが似合う、波打ったロマンスグレーの紳士だ。
片やぶっきらぼうで人見知りな峰とはまるで印象が違うが、しかし顔だけはそっくりだ。
西峰寺の現住職である峰の伯父さんも、剃髪して作務衣や袈裟を着ていつも忙しそうに寺の仕事をしてはいるが、かなりのイケメンだし、峰のお袋さんやまりあちゃんは、言うまでもなく美人に美少女だ。
おそらくこれはもう、峰家の血筋が美男美女の血脈を延々と引き継がせているとしか思えない。
まったく羨ましいというか、不公平な話だ。
ちなみにうちはというと、俺が起きた時にはすでにいなかった英一さんは、講演会の仕事でおそらく機上の人であり、冴子さんが仕事の合間に行けそうなら覗くと言ってくれていたが、今のところまだその姿は見えない。
一条の御家族も来るのかどうかは知らないが、見当たらなかった。





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