「王子を魔王から助けてほしいか」 真実を知っているのは、わたくしだけということなのですね。 王妃は我が子に乳を呑ませつつ、小さな股の間にそっと指を忍ばせては、老女の約束守られ続けていることを確かめて、この奇跡に感謝した。
「なんですって・・・」
王妃は目を見開いて老女を見た。
皺が深く刻まれた小さな顔に、歯が何本も抜けた黒い口腔の端を不気味に吊りあげ、濁った双眸でじっと王妃を捕えている。
暗い色のマントに包まれた腰は大きく曲がり、枯れ枝のような右手の先には、ゴツゴツとした歪な形の杖。
どこからどう見ても、その辺の貧しい老人に過ぎないこの女性の口から出た言葉は、しかし予想を遥かに超えており、次から次へと疑問を王妃の脳裏に噴出させた。
まずは、依然として謎のままである、なぜこの者が国王夫妻の寝室に入れたのかということ。
そして生まれたばかりの我が子が王子であり、それがために魔王から狙われていることを、なにゆえ知っているのかということ。
それをどうして、老婆であるこの者の手で、助けることができるのかということ。
「もう一度聞く。王子を魔王から助けて欲しいか」
姿形は確かに老婆。
声も老いた女のものと確かに聞こえる。
だが、そこへ込められた力は、非力な老女の物とはけして思えない。
それどころか、人間のものとすら思えなかった。
だが、この者の質問に対する答えは、一つでしかない。
「そなたが何者かは存じません。ですが、悲運に呪われた我が子を助けて貰えるのであれば、なにゆえそれを願わずにいられましょうか」
王妃は縋るような思いで応えていた。
老女は口の端を更に吊りあげ、小さな目は眼光鋭くギラリと光る。
「ならばその子をこの場で王女へ変えてやろう」
王妃は耳を疑った。
「なんですって・・・」
王子ではなく、王女の誕生。
出産が近づき、十万のドラゴンの引き上げと条件に、頭巾の僧侶が第1王子を生贄に寄越せと言い残して行って以来、切に祈った国王夫妻の願望。
しかし一度は男として生まれた子が、女に性を変えることなどできるというのだろうか。
「・・・ふむ。信じられぬというか・・・人間ならばそれも仕方あるまい。ならばこれを見よ」
そう言って老女は杖の先を窓の外へ差し向けた。
それを見て、一瞬、王妃は悲鳴を上げそうになったが、息を呑んだまま絶句した。
窓の外には確かに数十体のドラゴンが舞っていた。
だがそれらはあっという間に、黒い小さな鴉へと、姿を変えてしまったのである。
「何が・・・」
何が起きたというのだろうか。
この老人は人間なのか。
「言っておくが、迷っている時間はないぞ。外の連中はそろそろ猫から人間に戻る頃じゃろう。この城の上空にかけた霧もそろそろ消える。そうなると、魔境で覗けばこの部屋の出来事なぞ筒抜けじゃ。結界の内であれば、いくらでも魔力を操れるが、森を出てしまえばこれが限界・・・まったく不便じゃわい。じゃが、赤子の性を十数年も変えるとなると、並大抵の魔力では出来ぬ。さあさあ、はよう決心いたせ。猫が人間に戻って、この寝室で騒ぎ始めると、記憶を消してまた猫に戻すのがちと厄介じゃ」
老婆の言っていることは、さっぱり理解ができなかった。
だが、確かにさきほどから、扉の外でニャアニャアと猫の鳴き声が聞こえている。
この城で猫を飼っているという話は聞いたことがないから、老女の話が本当だとすると、それらは哀れにも猫に姿を変えられた、産婆や我が夫ということになる。
つまりどうやらこの老女は魔法のような能力を持っていて、それで我が子の性別を女へ変えてくれると言っているらしい。
それが本当であれば、この子を魔王へ差し出さずに済む。
「本当に出来るというのですか?」
「まだ疑うかこの小娘は」
一介の職人の娘であった嫁入り前ならまだしも、王妃となった自分にそのような口を聞けば、本来なら首を刎ねられても仕方がない。
もっとも、この老女はそのような下手を打ちそうにない気もした。
「わかりました。そなたを信じ、我が子の運命を託すことにいたしましょう。・・・どうか王子を、王女にしてください。哀れな嬰児の命を、なにとぞ御助けくださいまし」
王妃は赤子を抱えたままヨロヨロとベッドから這い出ると、老人の足元へ跪いてみせた。
血だらけの足元は生々しいものであったが、それを見ても老女は表情一つ変えず、残酷に要求を突きつけた。
「ただし条件がある。成人した王子を我が伴侶に寄越すと約束せよ、しからば御主の望みをすぐにでも叶えてやろう」
「それは・・・いったい」
王妃は茫然としながら顔を上げた。
老女は謎だらけだったが、この要求すらも到底理解が及ばぬものだった。
このような幼子を伴侶にと言うには、老人は年をとりすぎているし、女である彼女が同じく女になった我が子を娶るというのは奇妙ではないか。
それともドラゴンを鴉に、人間を猫に変え、子供の性別を変えられるというぐらいだからは、老婆というのも本来の姿ではなく、自らを偽っているのかもしれない。
魔術や魔法に詳しくはないが、考えてみるとこれは人間が操る魔術の領域を超えてはいないだろうか。
ただの術師であるなら警戒する必要はないが、あるいは彼女も魔王と同じ魔族の一員だとしたら・・・・魔族は恐ろしい種族だ。
しかし、中でももっとも恐ろしいのが魔王であり、この老女が言う通り、王子の性別を変えることができるとしたら、ひとまず女に興味がない男色の魔王が我が子を狙う心配は、おそらくなくなる。
成人の儀は16歳になった日に行われる。
この者がどうやって我が子を伴侶とするつもりなのかは知らないが、ここはひとつ、老女の提案を受け入れ、魔王の手から我が子を守り、16年の間にその対策を考えれば良いことではないだろうか。
「わかりました。そなたの要求通りにしましょう」
かくして王妃は老女の提案を受け入れると、忽ち目の前で我が子は女となった。
すると不思議なことに、再び陽の国を訪れるようになっていたドラゴンはそれきり姿を現さなくなり、平安な日々が続くようになったのだ。
我が子を取りあげた筈の産婆も、何の疑いもなく王女の誕生を国王に報せ、あたかも最初からそうであったように振る舞った。
国王は目の前の危難が去ったらしいことに安堵しつつ、それでも世継ぎがいないことをときおり嘆いたが、魔王に我が子を取られるよりはましと考え、第2子を作る考えはなかった。
そうして城陽は王女として16年間を過ごした。
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