16年前、絶望の涙に頬を濡らす若き王妃のその細腕に、清き御包みに守られ抱かれていた、生まれたばかりの小さな嬰児。
男児として生まれたばかりに、ドラゴンに攫われる筈だったその愛しい命を、王妃との盟約と引き換えに救ったのは、この俺だ。
そして人間と交わしたその約束は、俺にとってはあっという間に忘れ去られ、こうしてあっさり破られようとしていた。
愚かな王妃様はたったひとつの約束を思い出すどころか、突然姿を現し、若き新郎新婦の結婚式をぶち壊した乱入者に怯えて、あたかも自分は被害者だとばかりに、無言で震えるだけではないか。
もっとも、あのときは俺も、魔王の目を眩ますために老婆に変身していたから、思い出せないのは仕方ないのかもしれないが。
国王夫妻の傍らで、じっとこちらへ視線を向ける少女に気が付く。
その健気な姿は、どこからどう見ても怯えた若い女だ。

男は立ち上がると、音もなく少女に近づいた。
隣に立つ少年の身体が、ぎこちなく震えだす。
勇敢な彼は新妻を乱入者から守りたいのに、身体が言う事を聞かないのだろう。
男が掌で少年の身体を軽く押しやると、無様にも新郎は、豪華な赤い絨毯を敷いた大理石の床へ、ごろごろと5メートルほども転がった。
「・・・それにしても美しい女になったものだな」
「ひいっ・・・・!」
新婦の小さな顎へ手を伸ばすと、喉にひっかかったような短い悲鳴が聞こえて来た。
目の前の愛らしい口からではなく、玉座の方からだ。
魔力で王妃以外のこの場の者は、自由に声も漏らすことができない筈だから当然である。
もっともこの幼い新婦は大したもので、仮にこの瞬間、魔法を解いたとしても、悲鳴を上げることもなければ、男の前から逃げもしなかったことであろう。
伝わって来る精神の揺らぎは、多少は怯えているものの、実に落ち着いている。
さて、魔法がかかってもいないにも拘わらず、恐怖のあまり悲鳴も自由にあげられないらしい王妃の方だが、こちらはそろそろ警戒が必要なようだった。
なぜなら、傍らに置かれた宝剣へ指がかかっている。
彼女の精神は相変わらず混乱していたが、守るべき者を危険に晒した状況下で、無意識のうちに身体の神経が攻撃体勢へ切り替わろうとしているようだった。

確か王妃の父は、剣の達人で、彼女もその血を引いている。
面白い。
俺は目の前の小さな顎へ添えた二本の指先に力を入れて、新婦の顔を自分へ向けさせた。
玉座の王妃は今でも充分に美しい。
しかし16年前の幼い嬰児を守ろうとした彼女は、この世に比するものなき、気高さがあった。
それは我が子を守らんとする強さに支えられ、そのために王を騙し通すしたたかさに彩られ、人間の癖に我が心をぐいぐいと惹きつけた。
今目の前にいる新婦の目は、まさにあのときの王妃を思わせた。
姿かたちの美しさと、母や新郎を愚弄する俺を許さじとする勇敢さと、小さな身体に確かに備わっているのであろう肉体的な強さと。
これが、本来の姿に戻れば、どのように俺を魅了するのであろう。

男は僅かな悪戯心と大いなる好奇心と、相変わらず約束を忘れたままの王妃に対する紛れもない憎しみから、新婦に顔を近づけた。
微かに少女の目が見開かれる。
そしてまさに口唇を奪わんとするその僅かな瞬間、低い声で、彼女が聞いたことのない言語を詠唱した。




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