石造りの手摺に手をそっとかけて、煌々とした月明かりに溶け込む景色を眺める。
つい先ほどまでドラゴンが埋め尽くしていたこの空に、雲ひとつかかっていない青白い満月が明るく輝いている。
高台に建てられた城の、このバルコニーから見下ろす町並みは、そうそう見晴らしの良いものではないが、殺風景と言うほどでもない。
しかしこの時の俺は、民の活気溢れる営みを思わせる城下町も、その向こうに鬱蒼と茂る豊かな森の自然も、ましてや上空に煌めく初秋の星座も楽しんではいなかった筈だ。
それどころではなかった。
ざらざらとした手摺の石は、覚えのない指の角度で、軽く掴める。
ほんの昨日、・・・否、結婚式の準備を終え、ウェディングドレスの裾を引き摺りながらここへ立っていた、数時間程前には、胸元よりの少し下の位置にあったこの手摺に、俺は体重をかけながら両肘を置いて、儀式を目前に控えた緊張を必死に抑えようと努めていた。
「手摺もバルコニーも、こんなに小さかったんだな」
不思議と自然に口をついて出て来た、少しだけ男っぽい口調で、俺は独り言を言った。
ほんの数時間で慣れてしまい、この時にはすでにその方が楽になっていた。
母上の話は驚きを遥かに超えていた。
俺は陽の国の第1王子。
そしてあの森の向こうには魔王が棲んでおり、ドラゴンを使っては今もこの国の民を恐怖に陥れている。




魔王の要求は、俺自身。
俺を手に入れたら、ドラゴンを引き上げても良いと条件を突きつけ、父上はその条件を呑み、母上は俺を守ろうとした。
父の決心がショックでないとは言わないが、民の平和を守らねばならぬ、国王の立場も、王子である俺には理解できる。
それでも納得がいかない母上の前に不気味な老女が現れ、俺を女にする魔法をかけたのだ。
そして俺の身の上の保障と引き換えに、成人したらこの俺を伴侶として貰い受けると言い残し、・・・その約束は本日破られた。
裏切られた老女の正体は、今日、俺の目の前に現れたあの大男であった。
母上は16年の平和のうちに約束を忘れたか、あるいは軽んじた。
国王の前で、臣下の前で、そして今日俺の夫となる筈だった海の国の王子、白鳳と、彼の両親の目の前で、俺は突然に、16年間、俺ですら知らなかった本来の姿にあっさりと戻された。
身体は一回りも大きくなり、男にはとうてい合わぬ小さなドレスと華奢なハイヒールを身に付け、長かった髪は短く、身体の節々は骨ばって、豊満とは言えぬもののそれなりに膨らんでいた胸は、薄っぺらく・・・。
己の身に起きたことが理解できず、混乱してその場に座り込んでしまった俺を、きっと俺よりも動揺していたはずの白鳳は抱きあげて、俺の寝室へと連れて行ってくれた。
女らしい部屋の、年頃になってからは毎日その前に座り、侍従に髪を梳かせて、今朝も化粧をした筈の、ドレッサー。
観音開きのその鏡に映る、見知らぬ少年の顔を目がけて、俺は無意識に手にしたオルゴールをぶつけて割った。
「いつまでもそんなところにいると、風邪をひくよ」
自身も着替えを終えて、ラフなシャツ姿になった白鳳が、開けっ放しの硝子の扉からバルコニーへ出て、隣に立つ。
その顔は彼の優しい人柄をそのまま表したような、穏やかな笑顔。
しかし俺は、つい数時間前、誰よりも純真で優しいこの顔が、言い知れぬ動揺に歪んだことを知っている。
それは俺の”変身”がそうさせた。
「そっちこそ、いつまでここにいるつもりなんだい?」
「酷い言い種だなぁ、これでも僕は君のフィアンセなのに」
「っ・・・」
何のつもりなのかと思い彼を睨もうとして失敗する。
いつも頭一つ上にあった白鳳の顔が、ハイヒールを履いていたときよりも遥かに低く、今では殆ど同じ目線上にあった。
そして、真正面から捕えたその表情は、視点こそ違うものの、俺のよく知っている白鳳の優しい笑顔だ。
だからわかってしまう。
俺を今でもフィアンセと呼ぶ彼の言葉に、偽りがないことを。
ふと、白鳳の視点が揺らいだ。



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