4.『危険な保健室』 トラックを駆ける俺の揺れ動く視界には、10メートル前方に見える男子1名と、もう少し手前にいる男子1名。
耳に届く歓声は走行する選手達へ送られたエール。
そのうちのいくつかは、俺に対するものだと認識できた。
『先頭はD組の杉橋君、続いてA組の島内君、E組の原田君・・・』
コーナーを回ったところで、応援がひときわ大きく聞こえる・・・3−Eの前を通過したのだ。
『さあ、最後のコーナーを回って、残り50メートルです!』
白線が見えた。
そしてあっ、と思った瞬間、すぐ目の前で島内が転倒。
ぎりぎりのタイミングで衝突を避けた俺は、倒れてくる島内を躱して、どうにか彼を抜いた。
「いいぞ、原田ーっ!」
という、威勢の良い男子どもの声が聞こえ。
「きゃあ〜っ、原田君!」
という、女子たちの悲鳴の音量が、・・・うちのクラスは約3分の2が野郎で構成されているにも拘わらず、男の声を上回る。
劇的なタイミングで3位から2位に浮上した俺が、いかに格好良かったか。
応援席へ戻った瞬間、目を潤ませた女子たちの熱い眼差しを一身に浴びて、その伝説は他のクラスや学校中へも伝わり、篤や峰がどこか悔しそうな目で俺を見つめる。
彼らを前に、謙虚な俺は、「もう10メートルあれば、杉橋を抜くことができたのにな」と、目にかかる、少しだけ砂が混じった前髪を、ふぁさあっと掻きあげながら苦笑をする。
そんな光景が走馬灯のように、頭の中を駆け巡った。
その10分後、俺は小早川麗子先生の治療を受けたあと、保健室のベッドで不貞寝していた。
「お婿に行けない」
「だったらお嫁に行けばいいじゃない」
ボケともツッコミとも決め難いマリーなんとかネットのようなセリフを、少しばかり同情の入り混じった声色で言い放った小早川先生は、いつになく弄り甲斐のない俺に対して、エロ攻撃を中断すると、生徒の目の前で堂々と煙草に火を点けた。
とりあえず、ここはやはりツッコむべきなんだろうが、その前に。
「先生、その辺に消毒用エタノールとかオキシドールとかって書いてあるラベルが見えるんですが、俺の記憶が間違ってなければどちらも可燃性の薬品じゃありませんでしたっけ・・・」
ベッドの上に寝そべりながら質問すると。
「よく気が付いたわね。これはあなたの治療をするために私の指先を洗浄した消毒用エタノールと、傷口を殺菌・消毒する為に使用した、3倍希釈のオキシドールで、どちらも火気厳禁よ。さすが元保健委員君ね」
吸い口に赤い痕を残した煙草を、ピンと立てた二本の指先で挟み、妖艶に微笑んだ艶やかな口唇が、あまり感心していなさそうに、そう回答した。
「ええっと、・・・ご自分でも仰っている通りに、火気厳禁の薬剤なんですよね。・・・なのに、近くで煙草吸っちゃ駄目じゃないですか。っていうか、生徒の前でなぜ吸うんですか。自重しましょうよ」
「あら、原田君って煙草を吸う女は嫌いだったの?」
「いや、そうじゃなくて・・・、だからここは保健室だから、生徒の前で・・・」
「酷いわ、保険医だって結構ストレスは溜まるのよ。それに私は弱い女だから、駄目ってわかっていても、つい煙草に逃げたくなるの・・・それとも、原田君が慰めてくれるっていうなら、先生、煙草を止めてもいいかな」
「誰もそんな話してません。先生は大人なんだから、健康管理ぐらい、ご自分でなさっているでしょうし、そこは好きに吸えばいでしょう。だから、そういう駄目じゃなくて・・・先生、また俺のこと弄って遊んでるでしょう」
「あら、もう気がついちゃったの? それはちょっとつまんないなあ・・・。原田君って、つい揶揄いたくなるタイプなのよね・・・。でも、もっと弄ってほしいなら、・・・先生をその気にさせてくれなくちゃ駄目」
「小早川先生・・・まことに申し訳ないんですが、今の俺は先生のエロギャグに、付き合えるだけのタフな気力も底をついている状態なので、またにしてもらえませんか・・・」
「・・・やだ、本当に落ち込んでるのね。これは重症ね」
そういうと、先生は煙草を灰皿に押し付けて窓辺に行った。
「さっきから、そう言ってるじゃないですか」
事の原因は今から10分前。
本日の1種目、3年男子200メートル走の第1グループで出走した俺は、5人中の3位を走行していた。
先頭を走っていたのはD組の元陸上部員杉橋で、10メートル程離れていたが、2位のA組島内と俺との距離は僅差。
最後のコーナーを回ったところで、その島内が転倒し、俺は危ないところ衝突を回避して、倒れて来る島内を躱し、うまく2位へ躍り出た。
威勢の良い、うちのクラスの男連中からの声援が聞こえ、それを上回る女子たちの悲鳴が耳へ届く。
うちのクラスは3分の2が男で構成されているから、女の悲鳴がそれを上回るということは、如何に女の声の方がよく通るとはいえ、よほどの事が起きたということだ。
その原因は、当然俺が引き起こしていた。
倒れた瞬間に負けん気だけは強い島内が、咄嗟に掴んだものが俺のジャージで、それに気が付かずに俺は走り続けようとしていた。
劇的なタイミングで3位から2位に浮上した俺の身に、いかにしてその悲劇が起ったのか。
俺が女子たちの悲鳴に入り混じった、どこか非難めいた視線にようやく気が付いた時には、情けない俺の紺色のジャージは、トラックの赤土とそこへ引かれた白線の石灰に塗れて、俺の足首に纏わりき、所有者たる俺を下着姿で無様に転倒させていた。
「悪いな、原田♪」
という島内の心が籠らない謝罪が聞こえ、その背中を茫然と地面に這い蹲ったまま見送った次の瞬間、俺を避けるように後続の男子2名が左右のトラックを駆け抜けて行った。
どれが誰だか、いちいち俺は覚えていない。
「何してるのよ、原田君!」
という江藤の怒りとも悲鳴とも付かない声が、聞こえたような気がする。
応援席へ戻った瞬間、体育祭開始早々から3−Eに、見事な最下位をマークさせた俺は、非難めいた女子達の突き刺さるような視線を一身に浴びながら、それは面白おかしいエピソードとして、俺の名前が明日から他のクラスや学校中へも伝わってしまうんだろうなぁという、絶望的な学院生活の悲観的観測に苛まれていた。
保健室へ付き添ってくれた峰と、俺を見舞いに来てくれた篤の、どこか憐れみを含んだ目が、露ほどの慰めにもならず、さらに俺の涙を誘ったことは言うまでもない。
そんな彼らを前に、第一種目から完膚なきまでに打ちのめされてしまった俺に対し、「せめて・・・ブリーフだったら、抜くことができたんだけどな」などと、いつもの調子でボソッと迂闊な発言をしてくれた意外に呑気な峰が、その瞬間に笑顔のままで篤の手に握られていた希釈前のオキシドール100ml瓶と、その手首を必死に押さえていた俺の努力に気が付く様子は、まったくもってなかった。
もっとも峰の発言は、ブリーフはグループの聞き間違いであり、その前の「・・・」部分に「最終」という単語が入っていて、恐らく14位の3−Aを”抜く”ことが出来ただろう・・・と言いたかったようなのだが、あまりに峰の声が低すぎて俺も篤も聞き逃していたらしい・・・ということは、続く峰の話の内容で間もなく判明した。
どうやら、第1走者で走った俺がやらかしたお陰で、その後の3−Eの士気を見事に乱してしまい、うちのクラスの男子200メートル走は惨憺たる結果に終わったらしく、第2種目に入った現在もまだ3−Eはぶっちぎりの最下位なのだそうだ。
せめて俺が最終グループで走っていたなら、確かにもう少し救いがあったかもしれない。
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