5.『ウサギと子猫』(まりあ編)

篤の尻を後ろから蹴り上げながらクラス席へ戻る途中、ふと校庭の花壇前で俺は立ち止った。
あのウサ耳は。
「痛たた・・・えっと、どうしたの秋彦?」
ジャージのケツを両手で押さえながら篤も立ち止まる。
「ああいや・・・俺ちょっと寄るとこあっから、先行っててくれるか?」
「トイレだったら僕も付き合うけど・・・」
「いや、いらねーって」
そういうのは、行きたいならてめぇ一人で行ってくれ、隣でされると自信なくすから・・・。
「そう? じゃあ先行って待ってるね」
「おう」
俺は花壇をもう一度振り返る。
躑躅の緑からウサ耳がピョコピョコと、見え隠れしていた。
近くに兄貴の姿はなし。
「さてと・・・」
俺は腹を決めるとそちらへ近づいて行った。
黒いジャンパースカートの背をこちらへ向けて、グレーのタイツが芝の上で膝を突き、バックル付きのエナメルシューズが無造作に後ろへ投げ出されている。
二葉学園高校の女子の制服だ。
俺は真後ろで少し腰を屈めると、よく知っている彼女の小さな背中を人差し指の先でツンツンと突いた。
「・・・っ!」
背中がビクリと跳ねあがり、短く息を呑む音が聞こえ、ちょっと高めの細い声がそこへ混じっていた。
「ねえ、こんなところで何してんの?」
俺が尋ねると、目を見開いていた少しだけ無防備な小さいその顔が、次の瞬間には微かに眉を吊り上げ、キッとこちらを睨みつけると、すぐにフイッとそっぽを向いてしまう。
いつまでたっても、兄貴以外には懐かないウサギだ。
「あなたには関係のないことです」
その瞬間、茂みの奥から、ニャ〜っと聞こえた。
「猫?」
俺もウサギちゃん・・・、名前は峰まりあというのだが、彼女の隣へ腰を下ろして茂みを覗きこむ。
すると、躑躅の植え込みの奥へ隠れた、1匹の子猫とバッチリ目が合った。
「わぁすげぇ小っちぇ・・・まだ1ヶ月経ってないだろ、これ・・・へぇ猫が好きなのか?」
「そういうわけではないですけど、儀式の生贄にちょうど良いかと・・・・冗談ですから、そんな顔をしないでください」
そのとき、1台の車が俺達のすぐ後ろを通り過ぎていった。
車はそのままテニスコートがある角を曲がって、旧館の跡地を目指して走ってゆく。
「そうか・・・あの空き地が今日は、一般来場者用の駐車場になってたんだっけな」
「こうしてはいられない・・・早くこの子を捕まえないと・・・」
「えっ」
少し焦ったような声でそう言った彼女の横顔を見ると、眉間にしわを寄せて、真剣な顔をになり、茂みに手を伸ばして猫を引き出そうとしていた。
よく見ると、いつからここでそうしていたのだろうか、タイツの膝は既に砂だらけで、ツインテールの長い髪には、躑躅の葉がいっぱい付着し、せっかくの艶やかな髪をあちこち解れさせている。
「よしっ、じゃあ俺がそっちへ回るから挟み打ちにしちゃおうか」
「駄目っ・・・そんなことしたらびっくりして飛び出しちゃう」
まりあちゃんが焦った顔で俺を見る。
「だからさ、飛び出してきたところを、俺かまりあちゃんで捕まえたらいいかなって・・・」
「そんなことして、もしもやって来た車の前に猫が飛び出しちゃったらどうするんです! 少しはそういうことも考えてください!」
まりあちゃんがもの凄い剣幕で俺を怒鳴りつけた。
「あぁ・・・そうか、ごめん・・・」
そこまで怒るなんて予想外だった。
俺が素直に謝ると、まりあちゃんも、バツが悪そうに目を伏せる。
「いいえ・・・すいません。私こそ・・・以前、そういう光景を目の当たりにしたことがあったもので、つい思い出してしまって」
「いや・・・」
そういや、前に峰から聞いていた。
まりあちゃんは中学の頃、自分の悪戯で逃げ出した兎が目の前で轢かれて死んでしまったことがあると。
その事件を、結構トラウマに抱えているのかもしれない。
「じゃあさ、何かでおびき出すってのはどうだ? そろそろ屋台も始まってるし、猫の好きそうなもん買って来て、ここに置いて」
俺は植え込みの下の芝の表面を、トントンと指先で叩いて示した。
「そんな方法で上手く行くでしょうか・・・」
まりあちゃんが俺をじっと見る。
泣きだしそうな様子はなくて、俺は安心した。
自分の不用意な発言が、彼女の心の傷を抉ったのではないかと、ヒヤヒヤしたが、大丈夫そうだ。
「こうしていても、この子も中々出て来れないだろうし。・・・だからといって放っておくと、そのうち飛び出したところを車に轢かれちゃわないかって、心配なんだろ?」
「まあ、そうなんですが・・・」
微かに頬が赤くなる。
俺は立ち上がった。
「じゃあ俺、なんか買って来るよ・・・っと」
「あっ・・・」
立ち上がって軽くジャンプするとアスファルトへ着地する。
同時にまりあちゃんが小さく叫んだと思うと、茂みの向こうから小動物が、素早く飛び出していた。
「うわっ、しまった・・・!」
「危ないわ・・・、きゃっ」
まりあちゃんが駆けだそうとして、バランスを崩した。
次の瞬間その身体がふらりと傾き、50センチほど段差のあるアスファルトの方へ倒れて来る。
俺は咄嗟に両腕を広げると、飛び込んで来た小さな身体を受け止めた。
「おっと・・・」
「あ、あのっ・・・原田さん・・・」
まりあちゃんが慌てて姿勢を正し、俺の顔を見上げた。
俺達の背中の後ろを、1台の車が結構なスピードで通り過ぎて行く。
不意に小さな鳴き声が聞こえ、茂みの向こうへ目を戻すと、少し大きめの良く似た猫が走って来て、子猫の首の皮を口で咥え、来た方角へ連れ去って行ってしまった。
恐らく母親が迎えに来たのだろう。
「ああ・・・行っちゃったな。悪かったな、俺のせいで逃がしちまって」
子猫は俺がアスファルトへ着地した音に驚いて、植え込みから飛び出したのだろう。
捕獲作戦が台無しになってしまった。
「いえ・・・もう大丈夫だと思いますから」
まりあちゃんは相変わらず猫達を目で追いながら言った。
母猫はすでに遥か向こうを小走りに進んでおり、そのままフェンスに開いている穴を潜り抜けて、国立公園の林へと消えて行った。
確かにあそこなら、もう車に轢かれる心配はないだろう。
「本当は連れて帰りたかったんじゃないのか?」
ちょっと揶揄ってみる。
「ち、違いますっ! そんな子供じゃありません。あなたと一緒にしないでください」
「ははは、そっか。悪い悪い」
「・・・それと、どうもありがとうございました」
不意にまりあちゃんはそう言って、丁寧に頭を下げてきた。
「ん?」
「あの・・・一緒に猫を助けようとしてくださったことと、その・・・私も助けてくださったこと」
珍しくしおらしい態度で礼を述べて来た。
いや、まりあちゃんは元々こういう礼儀正しい子なのだ。
ちょっと素直じゃないだけで。
「いや・・・だって、女の子がそんな格好で子猫救出に奮闘しているのに、手伝おうと思わない男はいないよ」
「えっ・・・きゃぁっ、やだ・・・どうしようっ・・・!」
俺に指摘され、まりあちゃんは初めて自分の姿に気が付いたようだった。
一生懸命に両手で膝をパタパタと叩いて、すっかりこびり付いた砂を落とそうとしている。
俺は手を伸ばして、髪に載っている躑躅の葉をとってやった。
「ん・・・?」
そしてゴムの結び目に着いている物を取ろうと指を伸ばしかけ、やっぱりそれは、そのままにしておくことに決めた。
「あ・・・えっと・・・すいません」
「いやいや・・・ところで峰の所には行かないの?」
「はい・・・お母さんと伯父さんが待ってますから」
「そう。じゃあ気を付けて行くんだぞ」
もう一度深々とお辞儀をして、まわれ右。
ウサギちゃんは髪を揺らしながら、一般来場者席へ向かって走って行った。
俺はアスファルトに落ちてきた秋桜の花を拾う。
「ちぇっ・・・せっかく似合ってたのに」
まりあちゃんのツインテールを偶然飾っていたオレンジ色の花は、俺の掌で可憐に一時の命を輝かせようとしていた。





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