「黒木さん……と、ええとまたお会いしましたね」
通路側に座した黒木氏に声をかけられ、さらにそのすぐ向こう側に座っていた細面の男性が、顔を覗かせながらニッコリと笑いかけてくれる。
「さきほどはどうも、秋彦君。……なんだ、出て来ちゃったんだね」
風雅さんにも挨拶した。
「ええ、バルコニーからここが見えたもので。せっかくですしね」
「そう言ってくれると、ありがたいよ。クリスマスと年末年始の端境期だからね、無料とはいえ、少しでもお客様に楽しんで頂けたなら、企画した側にとってはありがたい。風雅、そっち詰められる?」
黒木氏に言われて、風雅さんが二つ席を詰めてくれた。空いた席へ、俺と峰は有難く腰を下ろすことにする。
「風雅さんはもうお仕事終わられたんでしたよね、ひょっとして黒木さんもですか?」
風雅さんはカジュアルなデニム地のコートに、下はジーンズとブーツを履いており、頭にはニット帽を目深に被っていた。黒木氏の隣にいないと、おそらく誰だかわからなかったことだろう。
そして黒木氏は厚手のウールコートの中に、水色のカシミアらしき柔らかそうな素材のマフラーをしており、中はスーツのままである。
「もちろん。今日は得意先への挨拶回りだけだったからね。定時に上がって、既に絶賛年末年始休暇中だよ」
そういって穏やかに微笑んだ。ということは。
「ひょっとして、俺達のために、わざわざ残っていらっしゃったとかですか?」
グランドイースタンホテル営業部の定時が何時かはわからないが、5時か6時だとすると、俺達が食事をしていた夕食時は、とっくにタイムカードを押した後になる。てっきり仕事の合間に顔を出したのだろうと思い込んでいたが、そうじゃないとすると、なんだか申し訳なかった。
しかし。
「いや、他にも用事はあったからね。もちろん、秋彦君の顔を見たかった理由もあるけど、それは僕の勝手だから君が気にする必要はないんだよ」
そう言って優しく黒木氏は微笑んだ。
「和彦さんは、可愛い子に弱いもんねぇ〜」
「おいおい、変な言い方をするもんじゃない。俺は秋彦君が良い子だから待っていただけで、それ以外の目的なんてあるわけがない」
「じゃあ、秋彦君は可愛くないとでも……?」
「そんなこと言ってない! いや、だから可愛いとか、可愛くないとかではなく、そもそも秋彦君は男の子なのだから、そんな風に誉めて貰っても、嬉しくはないだろうし……」
「誉めて貰うぶんには、何だって嬉しいですけどね」
基本がお調子者なもので。
「俺も秋彦は可愛いと思う。だが、今の会話には大いに問題を感じた」
と、なぜか黒木氏を観察し始める峰。無表情だから、相変わらず意図は不明。
「ともかくだ、俺はお客様に対し下心で接したことは、未だ嘗て一度もない。だいたい秋彦君だって困るだろう、彼氏の目の前でこんなこと言われちゃ」
「いや、ええと……、下……心っすか」
黒木氏の言葉はまさに否定であり、もちろん自分がそのような目で見られているとも思わないが、下心などという不穏当な単語が飛び出したことに衝撃を覚えていた。お陰さまで、セリフ後半部分を否定し忘れたほどだ。
それよりも。
「嘘ばっかり」
寧ろ風雅さんの邪推もまったく晴れていないことこそが、今は問題だ。
もちろん俺は、黒木氏が自分に下心などを抱いているとは思わない。だが、俺たちよりもはるかに付き合いが長そうな風雅さんが、冗談混じりとはいえ、わりとしつこく黒木さんを揶揄い続けていることには、或いはそれなりに理由があるのかもしれない。
そして、それはおそらく、俺達のような高校生ごときが、口を挟むような問題ではないのだろう。おそらく。
そして、そろそろ無遠慮な二人の会話に、ある種の可能性を俺は意識する。考えてみれば、ずっと彼らは互いを下の名前で呼び合っているのだ。
「ええと……、違っていたらごめんなさい。もしかして、黒木さんと風雅さんってその……」
二人の顔色を窺う。
「まあ、そう……だね。一応、ここは僕らの職場で、おおっぴらに認めるのは、どうかと思うんだが……」
「何言ってるの和彦さん、それじゃあ、肯定しているのも同然だよ。っていうか、別にいいじゃない。お互いさまなんだし、ねえ?」
少々困り顔の黒木氏と、隠す気もなさそうな風雅さん。だが、考えてみれば俺の質問も、かなり不躾だったかもしれないと思い反省した。
「そうでしたね……ごめんなさい黒木さん」
職場でこの質問は無神経だった。本当に付き合っているのだとしても、普通は隠したいものだろう。
「いやいや、構わないよ。知ってる人は知っているし、別に僕も隠しているわけじゃないから」
黒木氏が苦笑する。
「そうなんですか?」
「ああ。というか、僕らの場合きっかけがきっかけだったからね、寧ろ仕事のお陰で、風雅と知り合えたから、なんというか、出会いの段階から何から何まで、古い同僚には筒抜けなんだよ。だからといって、進んでアピールしようとは思わないけど」
そう言って黒木氏が笑った。
そういえば黒木氏はかつて、俺の母、夏子(なつこ)にただならぬ想いを抱いていた人だ。俺を生む前の話だから、当時の黒木さんはおそらく30歳になるかならないかといったところで、その頃彼が母を好きだったのだとすると、風雅さんと出会ったのはそれよりも後ということになるだろう。
風雅さんは見たところ30歳そこそこ……いや、今はカジュアルな恰好をしているから若く見えるが、制服を着ていたときは、もっと大人に見えた。綺麗な人だから、どうにも年齢不詳だが、仕事をしているときの落ち着きぶりからいって、たぶん30代半ばぐらいだろうか。
「つまり、お二人は職場恋愛……ええと、オフィスラブとかいうやつなわけですか?」
ありふれた言葉を使うと、いまひとつイメージが希薄になってしまうが、要するに職場で出逢って付き合い始めたということだから、間違ってはいないだろう。
「オフィスラブねえ……そういうことに、なるのかな?」
黒木さんが首を傾げながら隣の彼に聞くと。
「もう〜部長ったら、知らないですぅー」
口唇を尖らせた風雅さんが、指先でツンツンと黒木氏のお腹を突いた。そういえば、黒木氏の肩書は営業本部長だ。
「お前、さっきから遠慮がなさすぎだぞ」
峰に窘められる。
確かに、これ以上職場で立ち入ったことを聞くのは、失礼だろうと思い、目の前のショーへ顔を向けようとしたところ。
「以前、君に話した、『困ったお客様』の話、覚えてる?」
黒木氏から聞かれた。
「ええと、……あれですよね、なんかカーテンに煙草の痕があるのないので大騒ぎして、スイートとラセールのディナー要求してきたっていう、滅茶苦茶な……」
いつか町でバッタリと出会った黒木氏から、母の話を教えてもらったときに聞かされた、『困った客』のエピソード。
結局黒木氏はその要求を呑んだ挙句にボーナスまでカットされてふんだり蹴ったりだったという。そして自棄酒を呑んで道端で戻していた彼に、そっとハンカチを差し出したのが、俺の母夏子こと、イメクラ店『ワルキューレ』の美希(みき)だったのだ。
その後黒木氏は母へ会う為に店を訪れたが、母は間もなく妊娠が発覚して仕事を辞めており、やがて俺を生んだ。
だが当時の母の面影が、彼の心で消えずに残っていたのだろう。
先日、『天王(てんおう)』で俺を見かけた黒木氏は、肩を強く掴んできて「美希」と母の源氏名で呼びかけたのだ。
「いや、本当に滅茶苦茶だよね」
そう言って、風雅さんがニコニコと笑う。
「はあ……まあ、そうですね」
その笑顔がなんとなく意味深に思えて、どう反応してよいのか思案していると、隣で黒木氏が溜息を吐いた。
「その困ったお客様が、彼なんだ」
「え……」
黒木氏が宙で人差し指を立て、続いてその先を隣に向けた……。
「いや〜本当……ははは」
指先を向けられた風雅さんが、ヘラヘラと笑いながら俺に手を振っている。
「は……? え、ええと……えええっ?」
To be continued...