事の起こりは12月23日に遡る。
 クリスマスキャンペーン中、最初の連休で満室状態だった、グランドイースタンホテルの2012号室に、一人の若者が宿泊しにきた。
 今風の装いに今風の長い髪、明るい髪色。
 住所は市内で、職業が学生だという青年は、クリスマスシーズンまっさかりの五つ星ホテルへ、一人でやってきており、宿泊カードを記入する段階から従業員とは目を合わせず、終始キョロキョロとして落ち着きがなかった。
 一言で言えば挙動不審。
 さっそくフロントから客室部へ連絡が入り、われわれは2012号室の宿泊者を要注意ゲストとしてチェックしていたのだ。
 事件は早速起きた。
 日勤のスタッフが帰ってしまい、多くの宿泊客がディナーからまだ戻らない二十時台。手薄になっていた客室部へフロントから連絡が入り、私は2012号室へ急行するように言われた。
 行ってみると、新人ハウスキーパーの西村祥子(にしむら しょうこ)が膨れっ面で立っている。それを見たとたん、長くなると観念した。
 私は彼女から事情を聞き、隣の部屋を掃除していた最中に2012号室のゲストから呼び出され、「カーテンに煙草の痕が付いている」とクレームを受けたという経緯を知る。だが、その部屋は昼間、彼女が掃除をしており、この日にカーテンの交換があったことは、私も知っていた。
 新品のカーテンに焦げ痕があるとは考えにくく、したがって掃除の際に、そのような痕はなかったと、彼女は主張した。さらに言えば、現在部屋には使用済みの灰皿と、吸殻が二本転がっている。だから彼女はその事実を ゲストへ指摘した……おそらく声高に。
 当然ゲストは激昂し、話は拗れ、そして彼女は泣いた。
「僕がカーテンを焦がした証拠でもあるのか!?」
「いえ、それは……」
 ゲストに詰め寄られ、私は口籠る。
 確かに新品のカーテンへ、そのような痕が付いている可能性は低いが、百パーセントないとは言い切れないだろう。
「ですから、マネージャー……昼間、見たときにはこんな痕なかったんですって……」
 だが、仮にその万が一があったとしても、目の前にある煙草の痕は、全体で直径一センチにも満たない薄い色。大きな穴が開いているわけでもなく、普通の宿泊客であれば見逃してもよさそうな、本当に小さな痕だ。
 だからこそハウスキーパーが見落とす可能性もないとは言い切れず、しかしこのとき部屋にいた彼女は、新人といっても、大学時代からずっとアルバイトでこの仕事をしてきた、事実上のベテラン。いつも手際がよく、今までこういった見落としは一度もなかった。だから、この件に関しては並木が正しいと思うし、信じている。しかし、問題はそこではない。
 並木はこの仕事のプロであり、熟練者である。
 だが、かつてアルバイトとして従事していた前の職場でハウスキーピングについて叩きこまれてはいても、接客教育を本格的に受けていたわけではなかったようだ。したがって、敢えて言うならその方面でのトラブルを、彼女はときおり起こしていた。それがこのとき、裏目に出てしまったというのが、私の解釈だった。
どれだけこちらに正当性があったとしても、既に温度の高いゲストを、頭ごなしに否定するのは、最悪だろう。
「お客様……」
「狩尾だ。誰に呼ばれたかもわからないで、ノコノコやってきたのか?」
「…………」
 それはほんの一瞬だったが、無意識に私は彼の顔をまじまじと見つめていた。
 くっきりとした二重瞼と長い睫毛に縁取られた形の良い双眸が、一瞬、不安そうに揺れているのを私は確かに見た。
「なんだ……言いたいことがあるなら、はっきりと……」
そして戸惑った表情を隠すかのように、狩尾は視線を逸らすと、ぶっきらぼうな声でそう言った。
「いいえ。申し訳ございませんでした、狩尾様」
「っ…………! まったく……ひどいホテルだな。部下が部下なら上司も上司だ」
 私はゲストに再度陳謝すると、西村を下がらせ、この日は早退させた。
 のちに顧客名簿で確認したところ、2012号室のゲストは狩尾風雅(かりお ふうが)という名前。
 泰陽市の住民が狩尾と聞けば、最初に思い出すのが狩尾修平(かりお しゅうへい)で、それはこの街選出の代議士だ。そして議員の妻は料理研究家の柊ありか(ひいらぎ ありか)。雑誌やテレビにもよく出ている、女優顔負けの美人である。狩尾議員は恰幅のよい迫力のある五十代の男だが、どちらかといえば中性的で華奢な容姿の風雅は、言われてみれば、柊ありかによく似ている。
 夫妻には息子が二人いて、一人は国立T大を卒業後、アメリカ留学を経て、現在父親の秘書をしており、地盤を引き継ぐべく修行中と聞いている。そして下の息子は、まだ現役大学生だった筈。
 もっとも、それほど珍しいというわけでもない名前だけで、彼が件の次男だとまで断定できないが。
 そして西村は、この日を最後に、仕事を辞めた。
 理由はゲストの前で、私が彼女を否定したことにあり、それがプライドの高い彼女を傷つけ、失望に繋がったためだ。もちろん私に、そういうつもりはなかったが、いまさら言っても始まらないだろう。
 一人の優秀な新人ハウスキーパーを退職させてまで、私が機嫌をとったはずの2012号室のゲストは、翌日、あらためてグランドイースタンホテルへ訴訟も辞さないと、事務的かつ隙のない口調で簡潔なクレームを伝えてきた。原因は、もちろん西村が狩尾風雅を侮辱したためであり、上司である私もまた、相応しい対応をしなかったばかりか、一緒になって彼を嘲笑したというもの……どうやら、あの一瞬、彼をまじまじと見つめてしまった些細な態度が、彼には非常に不愉快だったようだ。
 電話を架けてきたのは別の男である。その代理人が狩尾修平事務所の顧問弁護士であり、同時に風雅が狩尾議員の次男であることは、このときに判明した。
 支配人とチーフマネージャーからそれぞれ呼び出されて、説明を求められ、私は彼らにありのままを伝えた。
 その日のうちに狩尾の代理人へ連絡を入れた上で、自宅マンションへ謝罪に向かったが、対応をした本人は碌に目も合わせず、私は玄関先で追い返された。しかも、その晩に本人から電話が入り「いきなり自宅へ押し掛けられた」だの、「謝り方が悪い」だのと、対応した女性事務スタッフに言いたい放題捲し立てていたという。いきなり云々は代理人と狩尾の連携もあるだろうから、誤解があっても仕方ないとして、人の話を碌に聞きもせず、謝り方が悪いはないだろう。さすがに憤慨したが、クレーマーを相手に細かい文句を言ったところで事態が好転するわけではない。とりあえず翌日、私はチーフマネージャーの馳部博夫(はせべ ひろお)を同伴し、再訪問することになったのだ。  
「ラセールのディナーコースを付けて、スイートルームに宿泊させてよ」
 昨日とは一転し、我々を迎え入れるなり、狩尾はそんなことを言ってきた。
 相変わらず、こちらと目を合わせようとはせず、顔色もどこかすぐれない。まともに議論をすれば勝ち目はないので、先手を打った……つまり、始めからそう伝えようと決めていたのだろう。これは背後に誰かいるだろうか……私はなんとなく、そんなことを考えていた。
 ヤクザ紛いの不当な要求だと言う事は明らかだったが、相手は狩尾代議士の息子であり、上司同伴の私に勝手な発言権はない。どう断るつもりなのかと思いつつ、なんとなく心配になって隣を見ると、馳部の顔がすっかり強張っていた。大学生の奔放な我儘に、この四十路男は、あっさりと動揺を見せていたのだ。
 しどろもどろな馳部になり代わり私はその場をなんとか取り繕うと、やむを得ず狩尾の要求を一旦会社へ持ち帰った。だが、支配人へ相談するつもりなのだろうと思っていた馳部は、どういうつもりか帰社後すぐに、狩尾へ電話をかけて承諾の意向を伝えろと私に命じた。
 そして。
「費用は全部、お前が出すんだぞ」
 電話を切った私に、馳部はそう付け加えたのだ。
 その後は散々だった。
 バーやスナックを何軒も飲み歩き、最初は付き合ってくれていた筈の板垣はいつのまにか姿を消していて、他の客の迷惑になるからと店を摘まみだされた揚句、あまりな扱いに抗議をしようとしたら、背の高い厳ついマスターからから冷たく見下ろされて……あの店は『Marine Hall』と言っただろうか。店の真中に派手な噴水なんかを飾っている、若者向きの賑やかな店だったが、マスターも彼らと変わらないような年齢で、確実に私よりも年下だったことだろう。
 不愉快な気持ちを抱えている間に、本当に体調まで悪くなり、せめてもの腹いせに『Marine Hall』の入り口階段付近で胃の中身を戻してやった。
 後輩に見捨てられ、店は追い出されて、まともな人生からも突き放されつつあるような気がした。
 師走の商店街を行き交う忙しいたちは冷たい視線を向けてはくるけれど、足早に通り過ぎるだけで、道端で蹲る私に誰も声をかけようともしない。中にはホテルの常連客だっていたかもしれないが、そんなことはもはやどうでもいい気分だった。彼らが私を見ないなら、私も彼らを見たくはない。
 目を閉じる。
 このまま少し、この道端で、自分が吐き出した汚物とともに身体を休めていよう。そのうちに冷たい路上で、私自身も同じように冷たくなっていくかもしれないが構いはしない。明日からあの忌々しい代議士の息子に、自分の人生をこれ以上壊されることもないし、腹立たしい上司と顔も合わせずにすむ……ちょうどいいじゃないか。
 私の人生など、所詮こんなものだ……。
 そうして、目を閉じてからどのぐらいの時が流れたのだろう。いや、実際には恐らく1分も経っていなかったのかもしれない。
「大丈夫ですか、黒木さん」
 あまり聞き慣れない女の声で、確かに私はそう聞いて目を開けた。最初に飛び込んで来たのは、シンプルな白の折り畳まれたハンカチ。そうして、ゆっくりと視線を上げていくと、小柄な若い女が、大きな瞳で心配そうに私を覗きこんでいたのだ。



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