呆れて仕事へ戻った板垣が言っていた通り、よりにもよって死体だと早合点した仙崎弘毅(せんざき こうき)、つまり狩尾風雅の恋人は、ラベイのボトルで頭を強打されて、暫く昏倒していただけだった。殺人を犯したと思っていた風雅は、一転、傷害罪へと罪状が軽くなり、さらに初犯で、情状酌量の余地もあり、駆けつけた狩尾代議士の弁護士によると、執行猶予が付くだろうということで一安心だった。
一方の仙崎は、もともと別件で付いていた執行猶予が消えて、暫く刑務所で反省することになりそうだ。
「狩尾様、失礼致します」
銀トレーを持った男が現れる。ラセールの料理長、藤林彌太郎氏だった。
「お疲れ様です。ええと、この度はお騒がせして、本当に申し訳ありあません……」
「それは、さっき聞いただろう黒木マネージャー。狩尾様、こちらで宜しいですか?」
藤林氏がリビングの中央へ向かいながら、風雅に確認する。
戸惑いつつ風雅が頷くのを見て料理長は持っていた物をローテーブルへ下ろすと、トレーの小鉢から蓋を上げた。陶器が擦れる軽い音とともに、ほのかに酸味を感じさせる梅の香りが、優しく部屋に漂う。
「あの……僕、何も注文は……」
「ご安心ください、狩尾様。この梅粥は我々、ラセールのスタッフ一同からのお見舞いです。そしてティーポットのハーブティーは、この黒木からの差し入れですよ」
「えっ……でも、どうして……?」
「狩尾様は、ご夕食の際にほとんど何も召し上がっていらっしゃらなかったでしょう? ご自分の意志で、ここへいらっしゃったわけではないのですから、食べる気にもならなくて当然です。ですが、今はもう深夜です。食欲は感じなくとも、お腹は空いている筈ですから、こういうあっさりしたものがお身体にはよろしいことでしょう。それに梅は胃に優しく、疲労を回復させますから、どうかお召し上がりください。ハーブティーに入っているオレンジピールも、ストレス回復によく効くようで、実はここにいる黒木も、何かトラブルがあるたびにいつもリクエストする、隠れたラセールの人気メニューなんですよ。そろそろ飲みごろでしょうから如何ですか? ……おや、狩尾様?」
見ると風雅が肩を震わせながら俯いている。そしてゆっくりと顔を上げた。
「どうして……どうしてそこまでして下さるんですか? あなたといい、黒木さんといい……僕はあなたがたに、酷いことをしたというのに……!!」
ヒステリックな声で叫ぶように言い放つと、今度こそ風雅はフロアへ崩れ落ち、ソファへ顔を突っ伏して、声を上げながら泣いてしまった。
「それでも、お客様に違いないからですよ。我々ホテルマンの仕事は、フロント、ポーター、ハウスキーパー、あるいはレストランのギャルソンやソムリエ、シェフ……それぞれ役割は違っても、全ての者が、誠意を尽くしてお客様にサービスする……それが仕事の目的です。お客様が抱えていらっしゃる問題を、共に考え解決して差し上げること、それが私達の務めでもあるのです。黒木もまた、最初から最後まで、その一心で狩尾様のお傍に立っていた筈ですよ。まあ、こういう情熱的な男ですから、思い込みの激しさから少々の脱線はあったかもしれませんが……」
そして料理長は、話の最後で冷めないうちにどうぞと付け加えると、先に部屋を後にした。
それから暫く泣き続けていた風雅は、漸く顔を上げて。
「黒木さん……色々とありがとう、それと本当にごめんなさい……」
瞼と鼻を真っ赤に染めながら、私にそう告げてくれた。