『うさぎ』
あたしの携帯が初めて鳴った日、あたしは大切なものを失った。
第一部
「この子、秋彦君の学校の子じゃないのか?」
トーストにバターを塗る手を止めて、伯父の英一さんが言った。
白髪混じりの豊かな頭髪を後ろへ撫でつけ、白のワイシャツの襟元に、薄手の藍色のスカーフを巻いている。
しかしまだヒゲを剃ってない。
昨夜は遅くまで絵を弄っていたのか、ちょっとばかし寝ぼけ眼だ。
「違うわよ、これは二葉(ふたば)学園の制服よ。しかも中学じゃない。秋彦はミルク半分?」
白いカップにコーヒーを注ぎつつ、伯母の冴子(さえこ)さんが聞いてくれる。
すでに化粧を終え、グレーのスーツに着替えた彼女は、白い割烹着を着て服をカバーしている。
朝食が終われば、いつでも出勤できる体勢だ。
たぶん後片付けは、英一(えいいち)さんに任せるのだろう。
英一さんが搭乗する飛行機の時間は、正午と言っていた。
「はい、入れてください」
俺、原田秋彦(はらだ あきひこ)の返事を聞き終わる前に、マグカップにコーヒー牛乳が作られていった。
「そうのなか・・・制服なんてどれも同じに見えるからなぁ」
英一さんはテレビを見ながら話を続ける。
冴子さんの制服の話を引き受けてのものだった。
テレビでは見慣れたアナウンサーが喋っている。
画面左半分は、ニュースで伝える少女の写真になっていた。
「全然違うわよ。城陽の女子はジャケットにベスト、プリーツスカートのアンサンブルだけれど、中学と高校で多少の違いはあるものの、二葉の女子はジャンパースカートが基本よ。あの手の制服は変に崩さないできちんと着こなしてこそ美しいの。というか制服は本来そういうものなんだけれどね。最近の子は・・・」
朝っぱらから冴子さんの薀蓄が始まった。
制服会社を経営し、自らもデザイナーをしている彼女は、50代でMacを自在に操り、ビジネススーツがよく似合うかっこいいキャリアウーマンだった。
中学高校の制服からバスガイド、スチュワーデス、看護婦、果ては巫女に神主まで、さまざまな制服を作ってしまう彼女の、巨大なクローゼットのコレクションを覗いただけで、なんだかイメクラに入ったような変な気分を味わうことができる。
本当の代表取締役は英一さんだったが、趣味と実益を兼ねた油絵で彼はしょっちゅう外国を飛び回っている。
冴子さんだってもちろん忙しい。
だからこうして3人で食卓を取り囲むことは年に数回ある程度だった。
「秋彦、そろそろ行かないと遅刻するわよ」
冴子さんに言われて時計を見る。
「うわっ、やばい・・・」
俺はトーストをコーヒー牛乳で流し込むと、鞄を取って立ち上がった。
テレビはまだ、5日前に失踪したらしい私立二葉学園中学の女子生徒のニュースをやっていた。
二葉学園といえば、先日転校してきた峰祥一(みね しょういち)の出身校である。
城陽(じょうよう)学院高等学校の編入試験はその学校ランクと比較してアンバランスなほど難しく、試験をパスできれば東大や京大も固いと形容されるほどである。まあ大げさではあるが。
それを突破してきた生徒というから、全校をあげての話題の人物であり、すでに既に伝説の始まりである。
しかも当の本人が眉目秀麗、スタイル抜群、スポーツもそこそこにこなせるとなると、女子がキャーキャー言い出さないわけはなく、最初はみんなが浮き足立っていた。
だが人の噂の75日すらもそのようなお祭りムードは続かなかった。
それにしても何故、転入ではなく編入なのか。
学校へ到着すると、その峰が珍しく朝から学校へ来ていた。
今日は右頬にバンソウコを2つ平行線状に貼っており、せっかくのハンサムを台無しにしている。
しかし手に持っているピンクや動物のイラストが入ったプリティーラブリーな封筒の束はどう見てもラブレター。
峰の素顔を知らない女子生徒が、まだ他の学年や同学年の他クラスで耳が遠い層にはいるようで、こうして今でも下駄箱へ入れられては、たまに登校してきた峰が、それを旅行から帰ってきた家主よろしく回収し、そして嫌味たらしくわざわざ教室のゴミ箱へ捨てているのである。
・・・っていうか読めよ。
昼休みである。
今まで寝ていた峰がやっと起きたらしく、遅い昼食を一人で取りはじた。
峰は殆ど授業中に起きていない。
最初は教師たちも注意していたが、何しろあの目つきに喧嘩上等のオーラである。
しかも今学期の中間試験で見事に全科目首位を取ったとなれば、そりゃお目こぼしも出ようというものだ。
そのとき峰が珍しく悲鳴をあげた。
「うわぁっ!」
へぇ〜こんな声で叫ぶんだ変に聞きほれていると、なぜだか道着姿の江藤里子(えとう さとこ)が竹刀片手に怖ろしい顔で横を素通りしていった。
どうやら昼休み中に部活をしていたらしいが、せめて武器は置いてから戻って来いと心でツッコむ。
などと思っていると、竹刀をブンブンと振り回し始めた。
いや、どういうことだ?
女子生徒がキャーキャーと悲鳴を上げながら教室から出て行く。
「おい、江藤いいかげんにしろ・・・」
振り向いた俺の右手首に小手が決まった。・・・痛ぇ。
ふと見ると峰も両手を互いに握り締めながら椅子に蹲っている。
「なんだこれ・・・」
足元にはムカデが5匹。
まさか、峰はこれに噛まれたのか? 教室だぞ?
チョロチョロと動き回るムカデを竹刀やら上履きで潰していく江藤。お前は女じゃねえよ。
「おっと・・・」
隣でドンと音がしたと思うと、俺の犬、一条篤(いちじょう あつし)が床を足で踏みしめていた。
一条が足を上げると、上履きの底へ張り付いた5センチぐらいのムカデの死骸が、ベリッっと床へ剥がれ落ちた。
昼間っからグロいもん見せんな。
と、後頭部へツッコんでおく。
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