しばらく俺達は無言のまま歩いた。
国立公園の遊歩道は、夜になればすっかり秋の気配を感じさせ、ひんやりとした空気に包まれている。
ぽつぽつと並んでいる街灯が足元を照らし、木の葉の風に揺らぐ音や微かに聞こえる虫の鳴き声と、ときおり遠くを通過してゆく電車の騒音だけが、俺達の耳に届いていた。
不意に峰が会話を再開した。
そのまえに一瞬だけ、息を呑む音が混じる・・・・何かを決心するように、僅かに声へ戸惑いを滲ませたまま、彼は言った。
「少しだけ突っ込んだことを聞くぞ。・・・お前のお袋さんはストーカーに殺されていて、親父さんは自殺だったと聞いているが、本当なのか」
今度は俺が息を呑む番だった。
「・・・お前、知っていたのか」
俺は隣を歩く峰を見上げた。
峰は前を向いたままだ。
「まあな・・・この土地に古くから住んでいる者なら、多分あの事件を知らない人は少ないと思う。まあ俺も祖父さんから聞くまでは知らなかったし、お前と知り合うまでは、それがお前の両親のことだとは気がつかなかったが」
峰の祖父にあたる峰祥隆(みね よしたか)は、先代の西峰寺(さいほうじ)の住職であり、今は執筆業をやっている。
専門はルポライターだと聞いているが、そういう職業に就いていれば、事件や噂には敏感になるのだろう。
だが、この話題は俺に、強かなダメージを与えていた。
「いつ知ったんだ・・・」
身近な友人に、自分の親が社会の好奇心を掻き立てるような事件に関わって死んだと知られていて、それを今まで気付かなかった・・・あるいは隠されていたというのは、かなりショックだ。
峰はどうして今まで黙っていた?
俺は叔母であり、母の妹にあたる春江(はるえ)さんから、母の仕事のことを聞かされて以降、べつにそのことが恥ずかしいと思ったことはない。
しかし世の中にはイメクラ嬢という職業を見下す人は少なくないだろうし、あるいは母も春江さんのように、ポルノビデオやアダルト雑誌の仕事もしていた可能性が低くない。
そのことも、峰の祖父のような人であれば探り当てている可能性はあるわけで、ひょっとしたら峰も知っているのかもしれないのだ。
その揚句の、あの事件。
そして父の自殺。
・・・・そんな特異な生い立ちを持つ俺のような男に、普通は自分の子供や孫を近づけたいとは、あまり思わないものだろう。
ならば峰の家族も俺の存在を好ましくは感じないであろうし、それ以上に篤の家族だって・・・。
そして峰は、それを知っていながら、どうして今まで俺に対して自然に接してこられたのだろうか。
「いつと言われてもな・・・断片的な情報が蓄積されてそこから推理して、今のお前の話で全部のピースがカチリと収まった・・・そんなところか」
「ピースね」
峰らしい言い方だと思った。
そこへ特別に感情の起伏らしきものは見当たらない。
俺に質問をされて、頭の中に存在する記憶を分析し、導き出された答えをシンプルにそのまま応えた・・・そんな感じだ。
そして、その回答はいくらか俺を安心させていた。
「本当だ」
未回答になっていた、峰からの質問に対する俺の答え。
「そうか」
峰も何に対する回答か、しっかりと認識していた。
俺は続けた。
「正確にはストーカー・・・近所に住む大学生が俺に、その・・・・手を出そうとして、お袋は俺を庇って殺されたんだ」
白い明かりに照らされていた綺麗な横顔が、ゆっくりとこちらを向く。
同時にその表情がガラリと変わる様子を俺は見ていた。
目を見開き眉間に深く皺を寄せた緊迫感のある峰の顔を、俺はひょっとしたら初めて見たかも知れない。
それを素直に怖いと、俺は思った。
この反応は、俺の両親の事件について、冷静に確認してみせた彼にしては、随分と予想外な変化だった。
「お前に手を出そうとしたって・・・どういう意味だ。まさか、その・・・お前・・・」
峰の声が少し震えていた。
「いや、落ちつけよ。暴力を振るわれたとか、そういう話は聞いてないから、多分大丈夫だ・・・っていうか、俺も実は、よく覚えてないんだよな」
英一(えいいち)さんから何かを聞いたらしい、篤の話だけが手掛かりだ。
君を守りたい・・・・その一心で、幼い君へ接近していた霜月に、華奢な女性の身体で立ち向かっていった。
篤が教えてくれた、お袋の潔白。
あの力強い言葉がなければ、俺はあろうことか、自分を守ろうとした母親の正義を疑うところだった。
「だが、お前のお袋さんを殺した男は、その後、釈放されているだろう? お前に手を出そうとした上に、お前を庇ったお袋さんまで殺した男が、なぜ何の償いもせずに釈放されているんだ」
「それは正当防衛だと証明できたからさ。・・・霜月勤(しもつき つとむ)は俺達の生活に深く入り込んでいたんだ。俺と遊んでくれる、お袋よりは年齢の近い彼を俺は慕っていたし、お袋も信用していたんだと思う。それがある日いきなり裏切られた。親父は昼夜を問わず不規則なバイトに明け暮れて、留守にすることが殆どだったし、お袋は頼れる人もいない状態で、信じていた男が敵だとわかって、精神的に追い詰められていたんだよ。だから奴に対して、二度と俺に近づくなと通告に行ったんだ・・・包丁を片手に、な。だが、力のない、武器なんて持ち慣れていない女が、震える手に包丁を持ったとしても、本気で男が飛びかかれば相手にはならなかったんじゃないかな。だからお袋は、逆に殺された。けど、警察はお袋が霜月を殺そうとしたかもしれない可能性を、けして見逃すことはなかった。霜月は正当防衛の末、不幸にもお袋を絶命させたと、断定したんだ・・・」
拳を震わせながら、英一さんはその話を篤に聞かせたのだという。
そして篤は、俺を抱きしめて、何があっても守ってみせると俺に誓ってくれた。
英一さんも、間違いなく冴子さんも同じ気持ちなのだろう。
それは嬉しいし、俺も彼らを愛しく思うけれど、やはり疑問を感じてしまうのだ。
俺は、そんなに弱い存在なのかと。
「釈放されたんだよな、そいつ」
もう一度峰が確認してきた。
ただでさえ、きつい目つきが、今は凶悪なほどに鋭く光っている。
峰は、怒っているのだろう。
だが、何故?
「ああ・・・お前も祖父さんから聞いてるんだろう?」
さきほど峰も自分で言っていた話を、なぜわざわざ確認してくるのだろうか。
「霜月といったか・・・・、そいつの顔、覚えているのかお前は?」
「あんまり、おにいちゃんのことは・・・」
思わず幼い頃の記憶のままに口へ出してしまい、俺はしまったと思ったが遅かった。
「お兄ちゃん? お前ひとりっ子じゃなかったのか」
日ごろ妹からそう呼ばれ慣れている峰にしてみれば、当然の反応だ。
おにいちゃん、イコール、兄。
「ああ、いや・・・俺、昔、霜月をそう呼んでいたから」
「そういうことか。お前は小さい頃、そいつと一緒に遊んでいたんだったな」
峰は嫌そうに言った。
呆れているのだろう、自分の母親を殺した相手だと言うのに、こんな言い方しかできない俺を。
「霜月のことは覚えているつもりだったけど・・・さすがに5歳の頃の記憶なんて、まともには思い起こせないよ」
しかし思い出す可能性はある。
事件の記憶を思い出したあのとき、肩から血を流して俺を庇った篤を目の前にして、ずっと忘れていた霜月の記憶が突然蘇ったように。
そのとき、俺は正気でいられるのだろうかと、不安になる。
「まあ、そんな事件を起こした野郎が、さすがにこの街に今でも住んでいるとは思えないが・・・・」
そう言いながら峰は俺を見て、そこで言葉を切って、そして珍しくはっきりとした溜息を聞かせてくれた。
わざとらしく。
「何が言いたい」
「いや、どうせ言っても聞かんだろうから」
「言ってみろよ」
「お前、一人で出歩くなよ」
「はあ? 何言ってんだ、無茶言え」
「ほらみろ」
「当たり前だ、何歳だと思っているんだ! それに理由を言えよ」
「霜月は釈放されているんだぞ」
それは意外なほど真剣な峰の声だった。
「だから、それは・・・」
俺の中で何かがざわめく。
「その野郎はお前達親子に近づいた。そしてお前に手を出して、お前のお袋さんを殺害した。そんな男が、罪も償わずに太陽の下で今も自由を謳歌しているわけだ。被害者のお前を心配するのは当然だろう」
「そりゃ、そうかもしれないけどさ・・・・でも、今までだって何もなかったわけだし」
俺はこれまで普通の少年の生活を送ってきて、とくに行動へ制限があったわけでもない。
もちろん夜遊びをしたり、家出をするような、羽目を外した行動をしていたわけでもないが、ふたたび俺が狙われる危険があるなら、英一さんや冴子さんがこれまで俺に普通の自由を許した筈がないだろう。
ということは、その危険性はないに等しいということだ。
「そうだな・・・ってことは、この街に奴がいないと確信できる根拠があるのかも知れないな。お前、その辺のこと伯父さん、伯母さんに確かめられないのか?」
「冴子(さえこ)さんはちょっと難しいだろうけど、英一さんなら教えてくれるかもしれない・・・けど、俺は別に心配もしていないんだが」
今まで無事だったものを、そろそろ18歳になろうという立派な男に成長した俺が、ことさら警戒する方が可笑しいだろう。
「俺が心配なんだ、だから確認して報告しろ」
「お前なあ・・・」
「しかも、たった今、見知らぬ男に絡まれるお前を目の前で見せられて、安心しろっていう方が無理だ。お前は俺が来るまで、やられっぱなしだった」
「突然すぎてびっくりしただけだ、っつうかやられっぱなしって、肩を掴まれていただけだろうが。大体、そんなヤバイ奴なら俺だってすぐに反撃・・・」
「本当にヤバイ野郎なら、お前がそう判断するより前に、お前を押し倒してナイフを突きつけているかもしれないだろう」
「んなこと言い出したら、キリがないだろうがっ」
「だったら鍛えろ」
「何の義務だよ」
「護身のためだ、他に何がある」
「話が飛躍しすぎてないか」
「まったく本筋から外れていないが」
「はいはい、心配してくれてご苦労さん。お前に迷惑かけないから、心配すんなよ・・・って、おいっ」
遊歩道の出口まで来ていた俺は、突然後ろから羽交い締めにされて、そのまま茂みに連れ込まれた。
後ろから体重をかけられ、木の幹へ身体を押し付けられる。