『Lapsus Calami〜slip of the pen』


***序章***

厳戒態勢のヒースロー空港から、時間をかけて到着ロビーへ辿り着くと、そこからタクシー乗り場へ移動する。
世界的に見れば日本の治安は格段に良い。
その認識はあったものの、平和の祭典である五輪準備に余念がない英国(イギリス)の首都、倫敦(ロンドン)が、それほど危険な都市という印象は、これまで持っていなかった。
とはいえ、姉の渡月(とげつ)とは違い、これが人生初の海外渡航である、僕、鳴滝嵯峨(なるたき さが)は、とりわけ英国文化や、欧州の政治情勢に造詣が深いというわけではない。
英国や倫敦といえば、産業革命にヴァッキンガム宮殿、シャーロック・ホームズ、プレミア・リーグなどを連想するぐらいの、薄っぺらい認識である。
あとは、切り裂きジャックぐらいだ・・・。
いずれにしろ、そこから倫敦が危険な街というイメージは、幸か不幸かまるで浮かんでこない。
それだけに、ヒースロー空港へ動員された警官の数たるや、成田のそれと比べて、同じ先進国の国際空港とは思えないほど厳重なものであり、印象は圧倒的だった。
あるいは、五輪開催に向けて、警戒が厳しくなっているということかもしれない。
とにかく、長時間のフライトに加えて、空港での念入りな入国審査・・・・日本人はほぼ顔パスなどと調子の良いことを書いていた、ガイドブックの売り込み文句までもが、大嘘だったのだと、ぶっつけ本番の現場で判明したことにも、実にうんざりとさせられた。
それでも、前後の白人や黒人達と比較すれば、3分程度で終了した僕の審査は、彼らを基準にするとかなり軽めだったと言える。
漸く辿り着いたタクシー乗り場も、長蛇の列で、ここに至るまでのあらゆる場所で、武装をした警官が目を光らせているというありさまである。
内紛でも起きているのだろうか。
「H..., Hello..., T..., To this place,...please....」
30分ほど待って順番が訪れた黒いタクシーへ乗り、口から心臓が飛び出しそうな思いをしながら、これもまた、人生初の実践英会話への挑戦が始まった。
何度か運転手に聞き返されて、自信をなくしかけたものの、原因は僕が発する音量にあったようであり、やや身を乗り出して話すことで程なく問題は解決した。
どうにか会話が成立して、目的地へ向かい、車は動きだす。
日本人講師による地元の小さな英会話教室でも、それなりに役に立つものだと感心した。
姉の勧めで中一から通い始め、これでも5年の英語歴である。
日本のタクシーと比べて広々としている室内で、軽く伸びをした。
「ん?」
スニーカーの靴底に違和感を発見し、手探りで原因を取り除いてみると、どうやら床に落ちている新聞を踏んでいたようである。
発行の日付は本日。
前の客が不作法にも、車内へ捨てていったのであろうか。
見出しに若い東洋人の写真が掲載されており、興味を持って拾い上げ、少し読んでみた。
どうやら記事は、『ゴールデン・タイガー』のメンバーが、誰かに殺されたという事件の内容だ。
ゴールデン・タイガー・・・金の虎?
残念ながら、寡聞にして知らない。
正直に言えば初めて聞くグループ名だ。
名前から連想するなら、ロックバンドか何かだろうという印象だが、記事に”mafia”だの”weapons”だのという単語が出ているところを見ると、そういうわけでもないらしい。
被害者だというキム・ソンイルという名前もピンと来ないし、粒子の粗い画質のせいかも知れないが、芸能人にしては顔が凶悪すぎる。
覚えているかぎり、クラスの女子達が騒いでいる、高寧(こうねい)ポップアイドル達の中に、そのような人物名やグループ名はなかった筈だ・・・。
もっともそういった話題に関しては、日本ドラマ好きの父、仁和(ひとかず)の影響により、僕は相当疎いほうだと思うが。
うちでは未だに河本里夏(こうの りか)が食卓の話題を独占しており、『黒い森』が再放送されているときは、その傾向に拍車がかかる。
僕が生まれるよりも前にテレビ放送されていた、彼女が主演のサスペンスだ。
数年前に大流行した高寧流ドラマ、『夏のロンド』が公共放送で放映されていたときでさえ、それは変わらなかった。
ハマッていたのは、両親ぐらいの世代だと聞いているが、うちにはそれが当てはまらなかったのだ。
姉はというと、切り裂きジャック以外の全てに興味を持てない特殊な人物であるし、母の御室(みむろ)はミステリー小説ファンで、活字以外の媒体に興味がなく、テレビもネットも触らない。
ようするに、鳴滝家に高寧流が入り込む余地などないのである。
したがってこのニュース記事にはこれ以上の興味を持てる筈もなく、新聞をもう一度車内へ捨てようと思ったが、なぜかそのタイミングでルームミラー越しに運転手と目が合ってしまった。
仕方なく紙束を畳み直し、一緒に持って降りることにする。
なぜ僕がという気がしないでもないが、あとでどこかに捨てておこう。
車窓の向こうへ視線を向ける。
それほど変化のない流れゆく異国の風景を眺めているうちに、徐々に眠気がやってきた。
コクリコクリとしかけたところで、不意に話しかけられる。
「えっ・・・」
「...34 Upper  Tooting Road」
少々無愛想に運転手はそういうと、車を一旦、歩道際へ寄せてから車外を指さす。
どうやら目的地に到着したようだった。
精算を済ませ、トランクから荷物を取り出す。
すぐに車の流れへ合流して遠ざかってゆくタクシーを見送ってから、ぐるりと辺りへ視線を巡らした。
古ぼけた煉瓦塀の建物群と、様々な書体でデザインされた、アルファベット表記の店看板、行き交う人々の日本人ではない顔・・・異国の地に一人取り残された心許ない感覚が、四方から急激に襲ってくる。
「Sorry」
サラリーマン風の男がそう呟いて、すぐ脇を通過すると、手にしていた携帯電話へ目を戻しながら、速い速度で遠ざかって行った。
おそらく僕とぶつかりかけたのだろう。
大荷物を抱えて、いつまでも往来の中に立ち止まってはいられない。
ここへ連れてきて貰うために、さきほどの運転手へ見せた用紙をポケットから取り出すと、通りの名前を確認しながら僕は歩き始めた。
A4サイズの紙面には地図がカラー印刷されており、そこに赤ペンで丸印と、姉の筆跡による住所や電話番号が書き込まれている。
「ああ、あった・・・」
ほんの数メートル歩いたところで道が分かれて、壁のプレートに記された通りの名前を見ながら、そこから細い坂道に入った。
どうやら運転手は、近づける限り目的地へ接近してくれていたようだった。
この坂道へ車は進入出来ないだろう。
坂道の先には住宅街が広がっていた。
そこから一軒ずつ住所を確認しつつ、さらに細い通路を進んで行くと、やがてひときわ大きな屋敷に辿りつく。
番地を確認し、目的の家に到着したことを理解するが、門には鍵がかかっており、見たところインターホンらしきものもない。
足元に荷物を下ろすと鞄からスマホンを引っ張りだし、連絡先の番号へ電話を架けた。
『もしもし』
相手の男性が日本語で出てくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
「本日到着予定の鳴滝です・・・今、門の前にいるんですが・・・」
『ああ、ちょっと待ってね。すぐ開けるから』
そう言って電話は切れてしまう。

 02

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