「それじゃあ、僕の部屋はこの階段を上がったところだから、何か困ったことがあったら遠慮なく言いに来てね。僕は普段は駅前の『金剛山』っていう食堂にいるけど、大抵は女房が部屋にいるから・・・といっても今は留守だけど。もしも彼女に言いにくいようなことが起きたら、店に直接来てくれてもいい。それじゃあ、これが鍵。3つあるけど、一応シールを貼っておいたから分かるよね」
そういって、家主の彼から鍵束を渡された。
鍵は門、玄関、そして自分の部屋の3本だった。
「はい、大丈夫です。ありがとうございました」
鍵束を受け取り、白衣の男性を見送った。
彼はこのあと、すぐに食堂へ戻り、夕食時に備えて仕込みをするのだそうだ。
ここへは僕の出迎えのために、戻っていただけのようだった。
男性は帷子ノ辻広隆(かたびらのつじ ひろたか)氏と言って、この下宿、『Alice's Lodging』の家主の一人。
名称が示す通り、実質的な大家は、広隆氏の奥方であるアリス夫人であり、彼女がきりもりしているらしいのだが、父によると経営者は広隆氏ということだった。
広隆氏と父は大学時代の友人らしく、その後アリス夫人と出会い、彼女の母国である倫敦に渡ってこちらで生活しているらしい。
そういう話を聞いて、僕はてっきり父と同じような中年の小父さんを想像していたものだから、広隆氏を見て仰天した。
180センチはありそうな高い身長にスラリとした体格。
彫りの深い顔立ちにくっきりとした二重瞼。
浅黒い肌と印象的な焦げ茶色の瞳・・・・そりゃあ、金髪美人の奥さんが嫁いできても不思議はないだろう。
アリス夫人が金髪かどうかは知らないが。
お二人には20歳になる大学生の子息が一人いて、名前は鹿王(ろくおう)という。
広隆氏いわく、「ほとんど部屋から出てこないよ。女房が引き籠りになるんじゃないかって、心配してる」なのだそうだが、そう言う広隆氏の顔は、面白そうに笑っていた。
引き籠り予備軍というのは、冗談なのか本当なのか、少々判断に困る説明だった。
大学にちゃんと通っているようなら、そう心配することもないと思うのだが。
友達とか、彼女がいないということだろうか。
「ええっと・・・この部屋だったな」
4階・・・英国式に言えば3階にあたるそうだが、水色のペイントでフレーミングされた扉の前に立ち、頂いた鍵を穴に差しこんで回してみる。
ガチャリとした手応えがあった。
出かけるときは戸締まりをするように言われたものの、何だか忘れそうな気がして不安である。
もっとも、ここの宿泊客は日本人ばかりなので、それほど神経質にならなくても大丈夫そうだった。
現に、3階の二人部屋に泊まっている大学生達は、常に鍵を開けっ放しで出ているらしく、鍵どころか扉すら開いたままの部屋から、散らかし放題の部屋の状態を見て、広隆氏がやれやれと溜め息を吐いていた。
現在の宿泊客はその二人と僕だけのようであるが、部屋自体は他にも二人部屋がもうひとつと、6人部屋がひとつ、さらにキッチン付きの一人部屋がひとつあるらしく、いずれも2階と3階に集中している。
僕の部屋の前には、さらに細い階段が上階に続いているので、何があるのかと聞いてみると。
「ああ、愚息が籠城している屋根裏部屋だよ。まあ、滅多に顔を合わせることはないと思うけど、いちおう生きているみたいだから、ときどきは遭遇するかもね」
と言って、ひときわ豪快に笑った。
自分の息子に、酷い言い様である。
冗談めかしているだけだろうとは思うが、仲がいいのか、悪いのかが、今ひとつよくわからない・・・。
まったくどんな息子なのだろう・・・気味が悪い奴なら嫌だなあ・・・などと思う。
少々重くなってしまった気持ちを抱えて、与えられた部屋へ入室する。
日本式に言えば広さは12畳ほどもあるだろうか・・・かなり広々としている。
家具は洋服ダンスとゆったりとしたセミダブルサイズのベッド、ブラウン管式のテレビ・・・映るのだろうか。
あとは勉強机と、壁に貼り付けた大きな姿見、そしてこれは後に使用方法がわかったものだが、折りたたみ式の物干しが一つ、天井に張り付いているシンプルな照明。
それで全てだった。
ひとまず荷物を解いて、生活環境を整える。
貴重品と携帯電話だけをリュックに入れると、週明けから始まる授業のために、学校の下見へ出かけることにした。
03
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