地下鉄エレファント&カッスル駅でノーザン線からベイカールー線へ乗り換え、ピカデリー・サーカス駅で下車する。
下宿を出てくるときに遭遇した、車折龍安(くるまざき たつやす)氏に感謝をしながら、オイスターカードなる非接触型ICカード乗車券を翳して改札を通過。
倫敦の地下鉄は普通に乗車券を購入すると、信じられないぐらいにコストがかかるが、その分様々な割引制度が充実している。
このオイスターカードもその一つであり、自動的にもっとも安い料金が選択されるシステムらしい。
車折は僕より1週間程度早くから『Alice's Lodging』に宿泊している、倫敦大学の留学生だ。
見たところ大学から帰ってきたばかりのようであるのに、彼はそのまま荷物も下ろさず、滞在に必要な当面の情報提供のために10分ほどの時間を割いてくれた。
非常に気さくで面倒見がよく、心優しい人物のようだった。
「アッパー・トゥーティング・ロードを南下した通り沿いに、『カシミール』っていう八百屋があって、そこも中々品揃えは良いけど、もう少し行った先にある『マルネイ・ストア』っていうスーパーの方が、断然品揃えが良いし値段も安いよ。アリスさんは、あんなところで生鮮食品を買うなっていつも怒るんだけどね。・・・でも、ここは基本自炊だし、毎日のことだと食費もバカにはならないから。けど、美味しい物が食べたくなったら、駅前の『金剛山』に行くと良いよ。広隆さんが御馳走してくれるから。・・・ああ、あとソーホーの辺りは気を付けた方がいい。最近日本人の留学生が、あの辺りで何人も行方不明になっている。被害者に女性が多いせいか、切り裂きジャック2世事件なんて、新聞には書いてるけどね。男も被害に遭ってるみたいだから用心して。それから、あんまり行く機会はないかもしれないけど、郊外も止めた方がいい。ハックニーなんて絶対に行ったらだめだよ。暴動がしょっちゅう起きてる。・・・うわっ、こんな時間。じゃあ、気を付けてね」
それだけ、まくし立てるように言うと、車折は3階の二人部屋へ駆け上がり、鞄を変えて駆け足で出て行った。
聞けば彼は『富士山』という日本料理店で、アルバイトをしているらしい。
のちに分かったことだが、この『富士山』という店は、広隆さんの食堂、『金剛山』の近所で、『金剛山』よりも前から営業しており、広隆氏が出店するにあたって色々と助けてくれたらしいのだ。
そこで『富士山』に敬意を払い、なおかつ日本の象徴たる『富士』に遠慮をして、『金剛山』という店名で収まったらしかった。
取り扱っているメニューは、『富士山』は寿司メインの本格的な日本料理。
『金剛山』は、定食中心で、煮物や焼き魚といった、日本人がイメージする食堂メニュー。
客層も『富士山』は、地元の英国人客や、日本人以外の観光客が多いが、『金剛山』はほとんどが日本人といった印象で、競合はないようだった。
ピカデリー・サーカース駅の改札を出た僕は、トゥーティング・ベック駅とは比較にならないほど大きな駅であるらしい構内で立ち止まり、辺りを見渡す。
出てくる寸前に学校側へ場所を確認したところ、「駅の上」という話であり、どの階段を上れという説明がなかったのだ。
雑踏の中で少し思案し、とりあえず手近な階段を上ってみることにした。
いずれにしろ、週明けからは毎日利用することになる駅である。
散策がてらに、辺りを見て回るのも悪くはない。
駅の上というからには、駅からさほど離れた場所ではないのだろう。
日本にもある有名なCD専門店チェーンのショーウィンドウを眺めながら、あまり明るくはない階段から地上へ出る。
まず目に付いた物は溢れ返る人通り、そして新聞スタンド。
くるりと振り返り、目の前のビルが出している、入り口のシンプルな看板を見て呟く。
「あ、・・・あった」
偶然、出口がドンピシャだったとはいえ、こうも早く学校が見つかると、いきなり時間が空いてしまい途方にくれた。
ちなみにピカデリー・サーカスの象徴ともいうべきエロス像は、車道の向こう側へ見つけることができた。
写真などで何度か見て予備知識はあったものの、とにかく人の多い場所という印象である。
「とりあえず、腹ごしらえしようかな・・・」
今さらのように空腹を意識して、ハンバーガー屋に入る。
考えてみれば機内食で朝食を食べたきり、今に至るまで飲まず食わずなのだから当然だ。
セットメニューを注文し、トレイを持って二階席に腰を落ち着ける。
そこからだと、エロス像がよく見えて、自分が倫敦にいるのだという実感がジワジワと沸いてきた。
速攻でダブルワッパーを完食し、Mサイズの炭酸飲料を半分ほど流し込む。
リュックから携帯を取り出し、ひとまず姉の渡月へ到着を報告した。
続いて地図機能で『ドックランズ・ミュージアム』の場所を調べていると、すぐに姉から返信があった。

『RE:姉上へ

クイーンへ連絡した?』


「忘れてた・・・」
人生初の海外渡航である弟が、無事の到着連絡を兼ねて、厳戒態勢に見える空港の様子や、下宿付近の街の様子、家主である広隆氏や、出てくるときに会った車折氏の人となり、そしてこれから『Lipski's Trial』を探しに、ドックランズ・ミュージアムへ向かう旨などを、エロス像の写真添付とともに、ざっと2MBほどで送信したというのに、なんというあっさりとした返事なのだろう。
鞄から紙切れをひっぱり出し、姉の走り書きを確認する。
そして新規メールを起動させ、アドレスを一字ずつ入力していった。
カーソルを本文の位置へ下ろして、暫し悩む。
はじめまして、で良いのだろうか。
しかし、姉の友人ともなると、相手が日本人なのかどうかも不明である。
考えてみれば、わかっているのは、ハンドルネームらしき『クイーン』という呼び名だけであり、男か女か・・・何歳ぐらいの人なのかさえもわからない。
まあ、クイーンなのだから女性だろうとは思うし、あの姉が年頃の男を相手にするところも想像できないのだが。
「とはいえ、この国にはQUEENという名前の男しかいないロックバンドもいるわけで、一概に名前で性別を判断してしまうのは早計だ・・・。いや、この際相手の性別など、どうでもいいか」
本文から“Ms.”という敬称部分を削除する。
とりあえず、相手は英国に在住しているわけであり、日本人だろうが英国人であろうが、英語を解さない可能性はきわめて低い。
無難なところで、英文で簡単な挨拶文を作成することにした。
もともと姉が凡その内容は伝えてくれている筈だから、名前と倫敦へ到着した旨、そして下宿の連絡先、最後によろしければメールを下さいという一文を添えて送信ボタンを押す。
送信したあとで、何となく不安になりもう一度送った文章を読んでみた。
「なんだかやる気のないメルトモ募集広告みたいになっちゃった・・・若い女子大生だったらどうしよう」
気恥ずかしくなり携帯を終了して席を立つ。

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