もう一度ピカデリー・サーカス駅へ戻ってベイカールー線を途中まで引き返すと、今度はエンバンクメント駅でディストリクト線に乗り換え、タワー・ヒル駅で一旦降りる。
「うわぁ・・・倫敦塔だ」
目の前には石造りの古い建物。
一見中世のお城のように見える、石造りのここは、かの有名な倫敦塔である。
駅からこれほどすぐ近くにあるとは思わず、一瞬呆然と見惚れて暫く立ち止まってしまった。
そのまま入場口へ行きたい欲求をぐっと堪えて、『タワー・ゲイトウェイ』と書かれている駅舎へ向かう。
そこからドックランズ線に乗り換え、一路『ドックランズ・ミュージアム』を目指した。
ウェスト・インディア・キー駅で降りて徒歩3分とある。
ドックランズ・ミュージアムは市内東部の再開発地域にある古い煉瓦塀の建物で、元は1802年に建造された砂糖倉庫とのことだった。
改札を出るときに時計を見てみると、すでに17時半近い。
閉館は18時なので、入場しても残り30分ほどしか見学できないだろう。
姉の指示は付近のマーケットで本の購入だけであり、展示の見学は含まれていないのだが、せっかく来た以上は一応見学したい。
しかし、入ってみると展示はわりと小規模で、正直、30分もあれば時間が余る程度の内容だった。
それでも姉のようなマニアであれば、時間をかけてじっくりと観察したのかもしれない。
事件の捜査資料や、当時の生活風景の写真や映像、遺体の検死報告などといった展示を見て回る。
これでも初級クラスの英語力では、なかなか荷が重い作業だった。
一通り見学を終えて博物館を後にした。
隣接しているカフェコーナーで、切り裂きジャックランチセットなるメニューを出していて気になったが、ゆっくりしている時間もないため、書籍を扱っているという販売コーナーを探索する。
玄関近くではそのような場所が見当たらず、裏通りに回ったところで、なんとなく怪しい一群を発見した。
近付いてみると、彼らはいわゆる違法グッズ業者のようで、切り裂きジャックのロゴ入りマグカップやピンバッチ、フィギュア、シルクハットと黒鞄、ナイフの3点コスプレセット、温度計に目覚まし時計、飛び出す切り裂きジャック絵本などなど、なんだか楽しそうな物販を行っていた。
「あ、あの時計・・・」
奥に掛かっている、壁時計に注目する。
「20pounds」
即座に店員が値段を教えてくれながら、時計の在庫を見せてくれた。
清華国製だった。
まあこんなものであろう。
「ノ、ノー・・・ソーリー・・・」
そして時計を包み始めた店員の手を慌てて止めて、要らないと首を横に振ると、そそくさと隣の店へ移動する。
こんなところで、姉の時計を発見するとは思わなかった。
随分と見境なく、ジャックアイテムを掻き集めているらしい。
隣のテントも、同じようなロゴ入りアイテムが大半である。
「早くも来年のカレンダー売ってるや・・・切り裂きジャックカレンダーとか、買って帰ったら、姉上喜びそうだなぁ・・・あれ?」
ふと、隅に置いてある薄っぺらい書籍に目を留める。
リュックのポケットからメモ用紙を取り出し、その名前を見比べてみた。
そのとき、どこからともなく、風に乗って鐘の音が聞こえて来る。
携帯を見ると18時になったようである。
俄かにテント群が慌ただしくなり、売り場のお姉さんもバタバタと商品を片付け始めた。
さっさと決めないと、不味いだろう。
腹を決めて、お姉さんに直接聞いてみることにする。
「Excuse me, ...Is this a Stephen's book?」
お姉さんは怪訝そうな顔をした後で、「Yeah」とだけ答えてくれた。
変に思われて当然だろう。
何しろ表紙にちゃんとJ.K.STEPHENと、著者の名前が書いてあるのだから。
しかし姉のメモには『Lipski's Trial/James F.Stephen』と書いてあり、目の前の本の著者はJ.K.Stephen。
書籍名は『Lapsus Calami』・・・ラプサス・カラミ・・・?
英語ではなさそうだが、なんと読むのだろうか。
お姉さんは片付けを再開し、客がまだ見ていてもお構いなく、台の上に陳列された商品を、次々とダンボールへ収めていく。
商い出来る時間が決まっているのだろう。
悩んだ末にその本を取り上げ、今一度確認してみる。
これで“J”がジュリアとかジョンとかであれば、別人決定だ。
「James Stephen?」
お姉さんは目を丸くすると、表紙を指差し。
「Yeah, The author of this book is James K.Stephen!  Do you understand?!」
一言、一言強調しながら、明確に答えてくれた・・・若干キレ気味に。
「Eh.... Y...,yes.  How much is this...?」
これで買わなければ、彼女に僕の姿が見えなくなるまで、背中からずっと罵声を浴びそうな雰囲気だ。
薄っぺらい書籍に80ポンドも支払い、これで無関係の本なら泣き寝入りだと考えながら、ドックランズを後にする。
しかしながら、明らかにあのテントは切り裂きジャック関連の商品を取り扱った店であり、ロゴ入りアイテムなどの中に、なぜか突然この書籍が置いてあった。
ということは、切り裂きジャック関連の書籍であることは間違いなく、その著者名も『ジェイムズ・スティーヴン』。
これで姉が指示する書籍の著者と別人とは、あまり考えにくい。
珍しい事態ではあるものの、やはり姉がミドルネームのイニシャルを書き間違えたとしか思えなかった。
書名が違うが、見たところ姉の書架にはなさそうだし、少々値段は張ったが、買って帰っても問題はない筈だ。
一応、メールだけ入れておこうか・・・。
そう考えながら、帰りの電車でパラパラと中身を確認してみる。
相当古い本であった・・・これもきっと、希少本のひとつなのだろう。
「ん・・・何だろう、これ?」
表紙を1枚めくったところに、セピア色のインクで、角張った書体の殴り書きがあった。
「ティーオーエムジェイディ・・・違うか。To MJDだ」
MJDへ・・・誰が誰に宛てて書いたのかは知らないが、どうやら前の持ち主が、MJDさんへ、かつて進呈した本らしい。
インクの色褪せ具合を見る限り、このメッセージも相当古い・・・MJDさんが、今生きているのかどうかさえ、怪しいだろう。
「古書ってロマンティックだな・・・」
少し感動を覚えつつ、さらにページを捲ってみるが、中身はどうやら詩集のようであり、裁判とはほど遠い内容に思えてきた。
本当に買ってしまって良かったのだろうかと、さっそく後悔したが、今更返しに行くわけにもいかない。
「80ポンドか・・・一万円弱ぐらいかな」
下手をすると、泣き寝入りの覚悟を決めないとならないようだった。

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