***第1章***

ヴェルヴェットのリボンを解くと肩へ零れる、艶やかな黒髪。
綺麗にカールさせた髪の束が、広く開いたドレスの襟から白い胸元へ踊るように流れ落ちる。
木枠に繊細な薔薇の彫刻を施した、丸い鏡のドレッサー。
手前の並びから小さなケースを取り上げ、口唇に紅を差した。
続いて丸いボトルの蓋を耳の後ろへ押しつける。
麝香の香りを身に纏った若い彼女は、間違いなく魅力的だった筈だが、鳶色の瞳はどこか憂いを帯びている。
あるいは、燭台の揺らめく朧な光が、そう錯覚させているのかもしれない。
不意に彼女の隣へ若い男が現れた。
荒々しい鷲・・・大柄で精悍な風貌の青年は、喩えるなら正にその化身といったイメージだろう。
波打つ明るい褐色の髪と、鋭い光を放つモスグリーンの双眸。
荒鷲が、彼女の小さな面に顔を並べると、耳元で優しく囁いた。
「綺麗だよ、モンティ」

 


7月30日月曜日。
本日からいよいよ学校である。
初日は入校式と入学手続きだけの予定だったが、それでも充分緊張していた。
何しろ全てが英語で行われるのである。
これでも中一の頃から週一で近所の英会話スクールへ通っていたのだが、レッスン以外は当然のように全て日本語で取り交わされた。
それが入校式を始め、何から何まで全部の手続きが英語で行なわれるのだから、その試練の過酷さは計り知れない。
「ああ、憂鬱だ・・・」
それでも、これから向かう『Vern's House International』のピカデリー・センターは、英語初心者から生徒を受け入れており、さらにプレイスメント・イグザミネーションの結果によって、クラス分けされるという話である。
だから心配ないはずなのだが・・・。
考え事をしていると、あっという間に学校へ到着してしまった。
CDショップの隣にある階段から出口へ向かい、とりあえず校舎へ入る。
さあ、これから僕は留学生として倫敦(ロンドン)ライフを送ることになるわけだ。
扉を開けると、襲ってきたものは喧噪だった。
階段を行き来する顔ぶれは様々。
概ね10代から20代に見えたが、中には小父さんや小母さんも結構いる。
父兄というわけではないだろうから、おそらく先生か、あるいは彼らもまた、生徒なのだろう。
受付は2階と聞いていたので、まっすぐそちらへ向かった。
階段を上がりきった場所の奥にそれらしきカウンターがあり、20畳程度の空間が更に多くの生徒らしき若者達で溢れている。
カウンターにはスタッフが3名並んで対応しているが、当分待たされそうな印象だった。
よく見るとカウンターの近くには番号札を発行する機械の設置があり、混乱にならないように、整理されているようだ。
とりあえず一枚引き抜いて空いたベンチに腰掛ける。
時計を見るとすでに9時50分。
入校式は10時開始だった筈だ・・・微妙な時間である。
間に合うのだろうかとやきもきさせられたが、ぎりぎりのところで順番がやってきた。
まずはプリントアウトした入校申請書を提出し、身分証明のためのパスポートと証明写真を添付する。
対応した男性は大変手際が良く、すぐに写真をパウチして戻ってくると、スチューデントカードを手渡してくれた。
僕のレベルはミドルクラスということだった。
クラス担任の名前はジェニファー・スティーヴン・・・またスティーヴンである。
間もなく入校式の時間になり、会議室らしき隣の部屋へ生徒達が集められた。
ざっと見たところ、新入生は30名ほど。
椅子が足りず、半分以上の生徒が壁際に並んで立っている。
日本人らしき生徒も数名いるようだ。
入校式ではマネージャーの肩書きを持つ40代ぐらいの女性と、図書室を管理している司書の若い男性からそれぞれ説明を聞いた。
話の内容は学校生活を送るうえでのルールと、施設や提供されるサービスの紹介、そして司書から授業で使用するテキストの入手方法について説明があった。
テキストは図書室で販売されており価格は10ポンドだが、これはデポジットでもある。退校時に本を返却すれば、全額返金してくれるのだそうだ。
ただし書き込みがある場合は、当然ながら買い取りになる。
これまでテキストというものは買って当然という概念があっただけに、この制度には驚いた。
図書室以外の施設としては、インターネットルームと、隣接のカフェがあるらしい。
インターネットルームには常時ネット接続されているPCが20台あり、在校中は無料で利用可能だが、大抵満席だそうである。
カフェは談話室と購買によって構成されており、パックやカップ入りの飲料と菓子を販売しているが、談話室の利用だけであれば、必ずしも飲料等の購入は必要ない。
さらに在学中は、僕らが手にしているスチューデントカードの提示によって、各公共機関で提供される様々な学割の恩恵を受けられるそうだが、そのための申請手続きは随時受付で行なわれるということである。
これで受付カウンターの混雑理由が判明した。
以上の説明を一方的に30分ほど聞いて、本日は解散である。
会議室を出るとほとんどの生徒はそのまま帰宅するか、何らかの手続きを行なうために受付に並んでいた。
僕は明日からの授業に備えてテキスト入手のために、3階の図書室へ向かう。
先程の男性が入校式と同じ説明をして、ミドルクラスのテキストを渡してくれた。
それを受け取り、学校を後にする。
いよいよ留学生生活のスタートだ。

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