そこの紳士さま、5ペンスでいいんだよ・・・。
サービスするよ。
「売女め・・・」
通りに溢れるパブの明り・・・騒々しい酔っ払いの会話や歌声。
夜中の1時過ぎだというのに、オールドゲイト・ハイ・ストリートは昼間のような賑やかさだった。
驚いたよ・・・綺麗な男だねぇ・・・。
特別に、4ペンスでどうだい?
吐きかけられる息は、アルコールと口臭で、嘔吐がこみ上げてくるほど臭かった。
「リズといったか・・・」
バーナー・ストリートで会った女は、確かそんな名前だった。
みんなはロング・リズって呼んでる・・・ねえ美人な紳士様、お願いだから名前を呼んじゃくれないかい?
見たところ、母よりも年上に見える女は、そう言って馴れ馴れしく肘に手をかけてきた。
角灯の光に気付いて、マイター・スクエアの入り口で足を止める。
考え事に耽るあまり、うっかりずかずかと広場へ入っていくところだった。
慌てて帽子を目深に被る。
引き返そうとしたところで、今度は前から声をかけられた。
「失礼ですが、ひょっとしてドゥルイット先生では・・・?」
諦めて立ち止まる。
幸い街頭からはかなり外れていたが、男が手にする角灯の明りが気になった。
「こんばんは、その声はワトキンスだね・・・申し訳ないが、カンテラを下げてもらっていいかな。そんな風に掲げられちゃ、眩しすぎるよ」
「ああ、これは失礼・・・随分、着こんでいらっしゃるんで、最初は誰だかわかりませんでしたよ。まだ9月だっていうのに、めっきり寒くなりましたね。今からお帰りですか?」
「まあね。しかし英国の冬は7月に終わって8月に始まると言った詩人がいるじゃないか」
「ああ、バイロンですか? 偉い先生はやっぱり言うことが違いますね。・・・ところで、何か鞄から出てますよ」
言われて視線をおろし、ぎょっとした。
ワトキンスがふたたび角灯を掲げようとしていたので、慌てて鞄の向きをかえる。
「こりゃあいけないな、母の洗濯物が、鞄からはみ出していた」
なんと言って良いのかわからず、思いつきで口走った。
「お母様のものでしたか。ペチコートに見えたもので、どうして先生がそんな物を持ち歩いていらっしゃるのかと、不思議に思いました。あるいは、奇妙な趣味でもおありになるのかと・・・まあ、学校の先生が、そんな筈ありませんものね」
いかに人の好い青年とはいっても、さすがに警官の目は侮れない。
冗談めかしてとはいたとはいえ、こう言ったということは、あるいは、僕の顔もちゃんと見ていた可能性がある。
鼓動が急に早くなった。
掌にじっとりと、滲みだす汗を感じる・・・鞄を取り落とさないように、注意しないといけない。
「バレてしまっては仕方がない。ひとまず、そういうことにしておいてくれるかい」
するとワトキンスは、いきなり大声で笑い始めた。
咄嗟に調子を合わせた判断は、間違っていなかったようだ。
「ははは、先生も真面目に見えて、けっこう冗談がお好きですね。・・・しかしどうしてまた、お母様の洗濯物など? 先生のご実家はたしか・・・ええと、どこでしたっけ」
「ウィンボーンだ。もっとも母は今、チズウィックの病院にいる。・・・心の病でね」
これは事実だ。
「・・・そうでしたか。これはいらないことを伺いました。お許しください」
「かまわんよ」
もう何度も交わした会話だ。
その度に相手は違うが、返ってくる反応もほぼ同じ。
違ったのはジェムぐらいだ。

『羨ましい限りだ。だって、考えてもみたまえ。お母上は今このうえなく幸せなはずだよ。
父君から解放され、子供達の存在さえ忘れられて、自分だけの世界へ旅立たれたのさ・・・・。
僕だってできるものなら、ずっと狂っていたいね。
・・・だが狂気というやつは、実に不公平で、僕にとってはひどく繊細で不安定なものだ。
ときおりこうして正気に戻っては、狂っていたときの自分を思い出し、業火のような羞恥に苛まれる。
今すぐにでも、死にたい気分だよ』

彼は本気であんなことを言っていたのだろうか・・・。
「先生、どうかあまり気を落とされませんよう」
「ああ・・・」
神妙な声でワトキンスに言われて、ふと我に返った。
巡回中の警官の前で感傷に浸るなんて、僕も大概間が抜けている。
ワトキンスは少し力強い声で言葉を重ねてきた。
「それと、お気持ちはわかりますが、飲み過ぎては身体に毒ですから、ほどほどになさってください。週明けにはまた学校に行かれるんでしょう? 明日はしっかり肝臓を休めてくださいね。生徒さんの前で酒の匂いなんてさせたら、がっかりされますよ」
「そうだね・・・そろそろ帰って寝るとしよう」
「本官は警邏がありますので、この辺で。・・・先生お休みなさい」
「ああ、お休みワトキンス・・・あなたはいい人だ」
本当に、なんとお人好しな警官なのだろうか。
・・・そんなことだから、いつまでたっても切り裂き魔が捕まらないのだ。
鞄の中を覗いてみる。
そこには女物の白いペチコートが、返り血を染み込ませた裾を折り重ねるようにして押し込められていた。
鞄を一旦地面へ下ろし、周囲の様子を窺う。
「僕が着膨れしていると、彼は言っていたな・・・」
辺りに誰もいないことを確認し、ロングコートの前を開けて、ベルトに押し込んでいたごわつきを全て外へ引っ張りだした。
皺になった赤いスカートの裾が、足元の泥濘を擦る。
なるほど、こんなものを無理矢理仕舞いこんでいた方が、寧ろ人目を引くかもしれない。
生地の汚れもじっくり観察しなければ、おそらく何だかわかるまい・・・キングズ・ベンチ・ウォークの自宅まで、再び警官に止められなければいいだけのこと。
今まで何人も騙してきたのだから、堂々としていればいいのだ。
頭の上からシルクハットを外し、鞄に押し込んでいた鬘を載せて、手探りで髪型を整える。
「ちょいとあんた、見ない顔だねぇ」
わりと近くから声をかけられて、心臓が止まりそうになる。
振り返ると小柄な女が、街灯の下に蹲ってこちらを見ていた。
いつから、そこにいたのだろう。
「こんばんは・・・」
語尾が震えた。
裏声を使い忘れていたが、音量が小さすぎたせいで、疑われずに済んだようだった。
「あんた随分と背が高いねぇ。色も白いし、愛蘭土(アイルランド)系かい? メアリー・ジェーンと同じぐらい身長があるじゃないか」
「メアリー・ジェーン?」
女は立ち上がると、ゆっくりこちらへ歩きながらその女の名前を出した。
ボンネットは黒いヴェルヴェットで縁取りをした麦藁、上着には毛皮の飾り・・・といってもイミテーションだろう。
そして花柄のワンピース。
派手な恰好をしているが、顔を見るとけして若くはない。
恐らく40代半ばから50代ぐらい・・・どうせまた売春婦だろう。
だが酔っているのか、女は随分と千鳥足だった。
あるいは具合が悪いのかもしれない。
「知らないかい? この辺じゃあ有名さ・・・よく仏蘭西(フランス)帰りを自慢しているってね。ドーセット・ストリートのミラーズ・コートってところにある、汚い小屋に男と住んでいる。美人を鼻にかけているって悪く言う男も多いけどね、あれはメアリー・ジェーンに振られた男の、腹いせだろうさ。ねえ、あんた・・・煙草持ってるかい?」
「持ってないわ・・・ごめんなさい」
「そうかい・・・べつに構わないさ。若いねぇ・・・あたしがあんたぐらいのときには、バーモンジーでトマスと一緒に暮らしていたもんさ、子供達も一緒にね。・・・けどあたしの酒が原因でね、捨てられたんだよ。あんた男はいるかい?」
「どうかしら」
「そりゃいるだろうさね・・・あんたは若くて綺麗だ。あたしも若い頃は男と会う度に言い寄られたもんだよ。けどね・・・今はこの通り。住む家もなく、救貧院を転々とする、その日暮らしだよ」
「今は、旦那さんはいないの?」
「ジョンって男と一緒にいるけど、あれもどうしようもない男だからね・・・不幸な男に不幸な女・・・似合いの夫婦だろう?」
「幸せじゃないのね」

『今すぐ死にたい気分だよ』

ジェムの言葉が頭に蘇った。
「あんたはどうだい・・・幸せになれそうかい?」
「私は・・・・」
僕は。
ふと、気がついた。
小さな広場の閉ざされた空間。
耳を澄ます限り、警邏中の警官の足音も聞こえない。
ここにいるのは、落ちぶれた中年の女と、若い男の自分だけ。
鞄を引き寄せて中を覗く。
裾が汚れたペチコートに隠れて、街灯の明りを反射する固い金属が、鞄の底に見えていた。
「今すぐ死にたい気分だよ」
彼の口ぶりを真似てみる。
「そう・・・あんたもかい」
隣で女が力なく笑った。

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