ラッシュアワーの車両から押し出されるようにして、エレファント&カッスル駅へ降り立つと、通路を渡ってベイカールー線へ乗り換える。
「覚悟はしていたけど、酷いラッシュだなあ」
日頃は自転車圏内の公立学校へ通っているため、定期券を購入して通学のために電車を使う体験も初めてのことだった。
従ってこれまで僕は、朝夕のラッシュアワーという物を経験したことがなかったのだ。
倫敦も東京と同じ経済大国の首都であり、朝から学校へ通うとなると、街の中心部へ向かう地下鉄は、当然ラッシュである。
経験はなくとも、それでもテレビドラマなどで見てイメージしていたつもりだったが、その予想はかなり甘かった。
人の波に押し込まれ、足元は覚束なく、違う駅で降ろされそうになったりと・・・まったく初日から散々である。
おまけに参ったのが、香水や体臭の強烈な匂いだ。
さらに揺れが、東京の地下鉄に比べてかなり酷い。
これまで電車やバスで酔ったことはなかったが、だんだんと胸のむかつきを覚え、頭の芯がふらついてくる。
視界を閉ざしていれば、少しはましかもしれないと思い、目を閉じる。
ガス燈に浮かび上がる、どこか恍惚とした女の顔。
夜気に立ちこめる血の匂い。
「うわっ・・・」
瞼を下ろした瞬間、車両が大きなカーブへさしかかり、慌てて頭上のバーを握った。
「Sorry」
隣で新聞を広げていた男性が顔を顰めて睨んできたので、押したのかもしれないと思い謝罪する。
男は黙って新聞のページを捲り、ニュースの続きを読み始めた。
見出しにあった“Golden Tiger”という単語に既視感を覚え、どこで見たのだろうかと考える。
視線を戻すと、目の前のシートが空いていた。
つい先程までは埋まっていた筈である。
「どうぞ」
真横でそんな言葉が聞こえた。
振り向くと、一人の女性がこちらを見つめている。
「えっと・・・・僕?」
「ええ」
にっこりとした笑顔を浮かべた彼女は、身長165センチぐらいの東洋人・・・『どうぞ』と言ったのだから、日本人だろう。
元は真っ直ぐであろう艶やかな黒髪の毛先を、緩くカールさせ、右肩の上で一つに束ねている。
うっすらと化粧をした顔は、僕より少し年上に見えるが、それでも20歳前後というところか。
おそらく女子大生ぐらいだろうか。
膝上のスカートに、足元のサンダルは、結構ヒールが高い。
ということは、160センチに満たない小柄な女性なのだろう。
この靴で立っていたら、彼女の方こそいつか倒れてしまいそうだ。
「いや、どうかお構いなく・・・っていうか、若い男が席を譲られるわけにいかないし」
そういうと彼女は、綺麗にマスカラを塗った目を丸くした。
「あら、男でよかったの? それっぽい格好はしてるけど、ひょっとしたら違うかもって疑っていたのよ。じゃあ、貧血の女の子ってわけじゃなかったのね・・・まあいいわ。とりあえず座っておきなさい。君、さっきから、とっても青い顔しているもの」
そう言って彼女は、僕の腕を引いて、強引に座らせようとした。
「そういうわけには・・・あなたこそ、そんな靴で・・・」
「あたしは慣れてるから大丈夫。それにピカデリーで下りるから、あとふたつよ」
「だったら僕も同じです」
「あらそうだったの。とりあえず座りなさい。押し問答していると却って迷惑よ」
確かにそろそろ周囲の視線が痛かった。
大人しく席に着いた後も、すぐ近くに荷物を抱えた白髪の女性を見つけ、席を変わるの変わらないのとやっているうちに、ピカデリー・サーカスへ到着する。
「それにしても、どうしてあんなに頑なに断られたんだろう・・・僕の行動が失礼に見えたのかな」
「あまり気にしない方がいいわ。あたしなんてこちらへ来てすぐに10連敗を喫したから、お年寄りへ席を譲ることを、もう諦めたもの。日本と違って、レディ・ファーストの文化は根付いていても、敬老精神という考え方はあまりしないのかもしれないわね。ところであたし、ちょっと買い物があるからファーマシーに寄って行くけど、君はどうする? 出口はわかっているのかしら?」
改札近くの大きな店の前で足を止め、彼女がそう言った。
仮に彼女の言っている通りだとしても、やはり目の前に立っている、荷物をもった年配者から席の交替を頑なに拒否されたのは、少々ショックだった。
それに彼女の論法でいくなら、レディー・ファーストの文化によって、快く受け入れてくれてもよさそうなものである・・・。
「僕はあのCD屋さんの隣にある階段から出ます」
改札を挟んで真向かいに位置している、混雑した階段を指差し、僕は返事をした。
「ふうん。ひょっとして留学生かしら?」
「はい。・・・といっても夏休みの間だけですが」
素直に質問へ答える。
「あらそう。それは面白いわね」
そう言って謎めいた笑顔を浮かべると、彼女は手を振りながら地下入り口から店に入っていった。
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