彼女が面白いと言った理由は、学校へ到着してから判明した。
さまざまな人種でごったがえす廊下を歩きながら、左右に並んでいる教室をひとつずつ確認して、我が教室を探す。
4階へ移動し、3つ目の扉の前で足をとめた。
「ああ、あったここだ・・・」
入校手続きの時に受付で頂いた書類と、扉の上に表示された部屋番号を見比べて、教室へ入る。
「君、遅かったじゃない」
「あ、さっきの・・・」
教室の奥で、白人と黒人の女性達と談笑していた東洋人の彼女が、入り口の僕を振り返ってにっこりと笑った。
左右の女性達が僕を見ると、彼女に何事か話しかけ、彼女が僕に伝えてくれる。
「紹介がまだだったわね。初めまして。私は常磐宇多野(ときわ うたの)と申します。さっきも言ったけど、日本人よ。・・・実はサーシャとエストレージャに、早く紹介しろってせっつかれてるの。名前を伺ってもいいかしら?」
宇多野さんはそう言って彼女の友人達を順番に手で示しながら、苦笑した。
髪の赤い白人女性がサーシャ、編み込んだ黒髪を頭上でコンパクトに纏めている黒人女性がエストレージャと言う名前のようだった。
ふたりとも宇多野さんと同じ年代ぐらいのように見える。
お互い簡単に挨拶を済ませたところで、勢いよく後ろの扉が開き、挨拶をしながら金髪の女性が入って来た。
「Hi,guys.  Are you ready?」
教室を埋める10数名の男女が、バタバタと鞄からテキストを出したり、ノートの準備を始めたところを見ると、おそらくこの女性が担任なのだろう。
確かジェニファー・スティーヴンという名前だっただろうか。
奥に空いている席をいくつか見つけ、とりあえずそのひとつへ腰を下ろした。
「Hey」
僕も授業の準備をしていると、隣の黒人男性から声をかけられ、A4サイズの用紙を渡される。
どうやら出席簿のようで、ところどころに丸印やレ点チェックが書きこんであった。
「あ、名前あった」
一番下の行に自分の名前を見つけて、同じように印を付けると、反対側に座っている、メタルフレームの眼鏡をかけた東洋人青年に紙を回す。
こうやって出席をとるようだった。
授業が始まり、ジェニファー先生が自分のテキストを開きながら、生徒達へ確認した。
「Do you have a textbook?」
すると何人かの生徒から、「No」という返事が返ってくる。
驚いたことに、半分ぐらいの生徒がテキストを持っていなかった。
ジェニファーは苦笑しつつも、持っていない生徒は持っている生徒の隣へ移動するように命じた。
宇多野さんもサーシャに見せていており、エストレージャさんもまた、別の生徒へ見せていた。
その間にジェニファーは青ペンを持ち、ホワイトボードの上で走らせる。
Present perfect simple・・・今日は現在完了形の授業のようだった。
テキストを捲り、該当しそうなページを探していると。
「なんでやねん・・・」
不意にそんな呟きが聞こえ、声がした入り口の方を振り返る。
そこには背が高い東洋人の青年が、不満そうに口唇を尖らせて立っていた。
彼はテキストを持っておらず、先程何人かに声をかけていた生徒の一人だったが、どうやら見せてもらう相手をまだ見つけられないらしい。
テキストを持っている生徒の数が足りないのだろうか・・・?
そう思い、ざっと見回していたが、僕を含めて数名の生徒が、まだ一人でテキストを見ている。
その中には、青年が声をかけていた白人の生徒と黒人の生徒もいた・・・断られたのだろうか。
しかし何故?
ジェニファーが困り果てた顔をして、自分のテキストを渡そうかと悩み、しかし授業の進行に支障が出るため、迷っているようだった。
「あの・・・よければ・・・その・・・」
僕は手元のテキストを見せるように持ちあげて、その青年に声をかけてみた。
青年はあまり大きくはない目を一瞬嬉しそうに見開いたが、すぐに表情を曇らせる。
彼の視線を辿り、隣の黒人青年と目があった・・・・なぜか睨まれていた。
「え・・・ああ、そうか」
確かに彼と僕の間の空間は、大柄な青年が入ってくるには少々狭いかもしれない。
「Sorry...」
僕は反対側の、眼鏡をかけている東洋人へ詫びながら、彼の方へ少し椅子を寄せると。
「こっちはいくら詰めて貰っても、全然オッケー。おいヒデ! いつまで突っ立ってんだよ、授業が遅れるだろ。せっかく可愛い新人君が呼んでくれてるんだから、椅子持ってさっさと移動しろよ」
どうやら彼も日本人だったようだ。
「五月蠅いわい、この薄情もん」
ヒデと呼ばれた関西訛りの青年が、椅子を持ってこちらへやってくる。
「仕方ないだろ、僕はマリアにキープされちゃったんだから。自分こそ、さっさとテキスト買えっての」
「しゃあないやんけ、図書館の連中なんやしらん、感じ悪うて近寄られんねんから・・・すまんな、ほんまにおおきに」
「いいえ・・・もうちょっと寄りましょうか?」
いつまでも鋭い視線を送っている反対側の黒人に遠慮をしているのだろうか。
ヒデという青年が、僕の後ろへ少し重なるようにして首を伸ばしながらテキストを見ていたので、もっと場所を空けようとすると。
「ええって、見えるから。自分こそあんまり西院(さいいん)に近付いたら、変な気起こされるで」
「は?」
「ばーか、それはお前だっての」
ヒデという青年の言葉を受けて、眼鏡の東洋人が言い返した。
どうやら二人は友達のようだった。
背の高い東洋人の青年は、簗英文(やな ひでふみ)。
眼鏡の東洋人は西院嵐(さいいん あらし)といった。
二人は元から友達というわけではないようだったが、ほぼ同じ時期の春からこのヴァーンズ・ハウス・インターナショナルへ通っているらしい。
クラスの日本人は、どうやらこの二人とあとは宇多野さん、そして僕の4名らしかった。
宇多野さんは基本的にはサーシャやエストレージャとともに、女子同士で行動しているようだったが、簗さんや西院さんとも仲がよさそうだった。
西院はかなり社交的な性格らしく、クラスの様々な生徒達と交流しており、逆に簗は日本人以外の生徒とはあまり喋っていないようだった。
そのせいか、その後授業が始まってからもずっと黒人の生徒に遠慮しっぱなしで、後ろの方から首を伸ばしてテキストを覗き込んでいた。
「あの、ちゃんと見えてますか?」
「大丈夫やで・・・嵯峨(さが)は優しいねんな」
簗が穏やかに言って、目を細めながら見つめられる。
いきなり名前を呼ばれたせいか戸惑った。
「そんなこと・・・」
なんだか照れくさくなり、焦ってテキストに目を戻す。
「当てられてんで」
「えっ?」
簗に教えられ、先生を振り返った。
「S...okay? Have you ever seen a ghost?」
「は? ああ、ええっと・・・No」
「No... but, you have to say...」
「現在完了形」
後ろから耳元で囁くように言われ、ドキッとする。
「Y, Be quiet」
「Sorry,  teacher」
僕に教えたために、簗が静かにしなさいと怒られてしまった。
さっさと答えないといけない。
「ええと・・・No, I've never seen...a ghost.・・・かな?」
「Excellent. ...A. Have you ever...eh...fallen in love at first sight?」
「Yes,teacher. I've fallen in love with you at first sight」
西院がそう答えると、教室がどっと笑い声に包まれ、先生が頬を赤らめながら、苦笑していた。
「アホかあいつ、授業中になに先生口説いとんねん・・・」
「凄いですね、西院さん・・・ああいう心の余裕が僕もほしい」
そこで僕はあることに気が付いた。
僕、鳴滝嵯峨(なるたき さが)は『S』。
西院嵐は『A』。
つまり、このクラスでジェニファーは、生徒全員をイニシャルで呼んでいるのだ。
英語圏以外の生徒が集まっている教室において、英国人である先生にとっては、すべての名前を覚えるのは困難だろうと、容易に想像がつく。
ましてや本日の僕のように、短期留学生が出たり入ったりするなら、尚更だ。
だからこの方法自体は合理的だろう。
ところが簗・・・つまり簗英文だけは、彼女はなぜか『Y』と呼んだのだ。
ついでに言うと、常磐宇多野は『U』で、サーシャは僕と同じ『S』。
エストレージャは『E』だと、この後で判明した。
なぜかヒデだけ、姓のイニシャル呼びなのである。
『H』と呼ぶと、おちゃらけた生徒が冷やかして授業にならないから、とか・・・?
小学生であるまいし、そんなことはないだろう。
まして、ここは英国だから、『H』で性行為を連想する生徒は、少ない筈だし、いてもそれで授業にならないほどの騒ぎになるとも思えない。
そんなことを考えていると。
「嵯峨?」
「えっ・・・うわっ・・えっと?」
下から覗き込むようにして、簗が僕を見上げていた。
すぐ隣に立って、横から前屈みに顔を寄せられ、その近さに驚いて距離を取ろうとすると、反対側の肩に手を置かれていることに後から気が付く。

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