地下鉄には乗らず、そのままシャフツベリー・アベニューを北上していく。
突如として通りの向こう側へ現れる、東洋風の赤い門・・・牌楼に驚いていると、このあたりは清華街(しんかがい)だと西院が教えてくれた。
なるほど、看板に漢字が目立つ筈である。
「こっちやで」
牌楼の手前で『京城屋(けいじょうや)』と縦書きに書かれた、赤地に白抜きの大きな看板が見えてきた。
その手前で入り口がトンネルのようになっている細い道へヒデが入っていく。
車の出入りも出来ない細い裏通りには、軒並み漢字が氾濫しており、軒先に飛び出したワゴンやダンボールが、ただでさえ狭い通りを浸食している。
これでは台車の行き来さえ難しいことだろう。
雑然とした下町のような雰囲気と、野菜や肉、香辛料などの入り混じった、生ゴミの匂い・・・。
とてもここが、倫敦のど真ん中だとは思えなかった。
「おい嵯峨、入るぞ」
空気に飲まれてぼんやりしていると、西院が肩を叩きながら声をかけてくる。
「あ、ごめん・・・」
振り返ると、ヒデはすでに中にいるらしく、姿が見えない。
西院の後から僕も建物に入る。
重厚そうな赤い扉。
その隣の白壁に、成人男性の目線ぐらいの高さで、赤いプレートが貼り付けてある。
「この店だったんだ・・・」
漢字で書かれた白抜きの店名は、『高寧(こうねい)式焼肉総本家京城(けいじょう)屋倫敦店』と書いてある。
どうやら、牌楼の手前で見かけた大きな看板と同じ店のようだった。
おそらく入り口がわかりにくいために、表通りに看板を出していたのか・・・あるいは、ここが裏口ということだろう。
「これは、坊ちゃんやないですか!」
「こんにちは料理長」
「えろう、ご無沙汰しとります・・・社長のお加減はどないですか?」
細い階段を上がって行くと、2階の入り口で数名の男が、口々にそのような会話を交わし合っていた。
一人はどう聞いてもヒデの声、もう一人はどうやらこの店の料理長らしい。
「ええっと、ヒデってひょっとして・・・」
2,3段先を上がっている西院の背中を、指で突いて説明を求める。
「ま、聞いての通りだ・・・僕も最初に知ったとき、びっくりしたんだけどな」
なぜか親指を立てながらニヤリと不敵な笑みが帰ってきた。
この店のオーナーの親類か何か・・・そういうことだろう。
「こちらの坊ちゃんは、嵐山君でしたかいな。後ろの別嬪さんは・・・ええと」
ブロンドの長髪を、後ろで一つに纏めた、色の白い白衣の男性は、僕と西院を交互に見ながらそう言ってヒデに説明を求めていた。
彼の背後には、開きっぱなしの扉があり、その奥では同じような白衣の男達が、慌ただしく働いている。
通路の奥は、店名のロゴを大きくプリントされた赤い暖簾がかかっており、どうやら店に続いているようだった。
どうやら僕らは、関係者用の通用口から入ってきたということだろう。
「嵐山ではなく西院嵐です、カーライル料理長」
「その子は鳴滝嵯峨・・・ここに来るんは初めてや。無窮花の間、空いとる?」
「すんません、生憎今日は埋まってますねん。知らせてくれてはりましたら、開けといたんですけど・・・。翡翠の間でしたらさっきお客さん帰りはったとこですから、少し待ってもろたら空きますさかい」
ヒデがそこでいいと承諾すると、カーライル料理長はホールへ出て行き、黒い制服を着た従業員に何事か指示していた。
間もなく同じ従業員が呼びに来て、2階の部屋へ通される。
『翡翠の間』は10畳ぐらいの個室だった。
それほど大きくはない部屋には、どっしりとした木製のテーブルと、風合いのあるクラッシックな椅子が四脚置いてある。
テーブルは窓辺に寄せてあり、丸い木枠の窓からは、『倫敦清華埠』と書かれた牌楼の文字が、かなり近くに見えていた。
「わあ、景色がいいね!」
思わず窓辺に近付くが、隣に立ったヒデはあまり機嫌が良い表情でもない。
「景色だけはな。この部屋ちょっと五月蝿いから、あんまり好きとちゃうねん」
「そうなの?」
なるほど、確かに言われてみれば、窓から表通りの喧噪が、結構入ってくる。
騒音は戸外からだけではなく、扉の向こうからも聞こえていた。
階段のすぐ近くにあるせいか、階下に続くホールの賑わいが丸聞こえなのだ。
「そう仰らないでくださいよ、一応うちのVIPルームなんですから」
案内してくれてた従業員が苦笑する。
見たところ20代前半ぐらいの若い東洋人で、訛りのない日本語を話す彼の名札には、「高橋」と漢字で書いてあった。
恐らく日本人だろう。
車折(くるまざき)さんと同じように、アルバイトをしている留学生だろうか?
「VIPルームなんですか?」
少し興奮しながら、高橋さんに聞き返してみた。
そんな場所へ通されるなど、生まれて初めての経験だった。
「ええ、先程まではチョン・ミンス会長が、お客様と一緒にここにいらっしゃいました」
「ええと、誰でしょうか」
いかにも高寧人風な名前だが、会長ということはこの店の偉いさんだろうか・・・しかし、この店のオーナーはヒデの親族の筈だ。
「若い方だとご存じなくて無理はないかも知れないですね・・・。『セブン・シーズ・エンターテイメント・ロンドン』の代表の方です。一応この店の・・・」
「高橋さん、悪いけど、はよ準備してくれるか?」
不意に強い口調でヒデが言葉を挟んだ。
・・・会話を遮ったように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「ああ、すいません・・・ではすぐに)
ヒデの要請で、高橋氏はコンロに火を入れると、すぐに部屋から出て行く。
間もなく僕らも席に着いた。
牌楼に向かって窓際の席にヒデが腰掛け、その隣の椅子に鞄を置いてしまったため、必然的に向かいの席へ、僕と西院が並んで座ることになる。
なんとなくヒデは、あまり機嫌が良さそうには見えなかった。
「ええっと・・・セブン・シーズ・エンターテイメントって・・・有名な会社なの?」
こっそりと西院に聞いてみることにした。
すると彼は窓の外を指差す。
「あそこに一軒。シャフツベリー・アベニューでも何軒か店を出していた筈だけど、気付かなかった?」
言われて、少し身を乗り出し気味に窓の外を確認した。
表通りには、いつの間にか小さなラーメン屋台が出ていて、白衣を着た東洋人の男が二人、忙しく働いていた。
頭を見ると、一人はスキンヘッドで、もう一人は金髪に染めている。
まだ開店準備中で食材を出していないから、帽子やバンダナで頭を隠していないのだろうが、それにしても個性的なラーメン屋だった。
看板には『南部牛肉拉面』と書いてある。
美味いのだろうか。
もう少し視線を上に上げると、やや日が傾き始めた清華街の街並みに、赤々と照明を点した牌楼と負けないぐらい、ギラギラと光るまばゆい看板の店がある。
「あ、”Seven Seas”って書いてある」
正面入り口の上に『Seven Seas』、そして建物の角へ張り付くように、縦書きで『七海』と書かれた店看板を出し、いかにも華やかな雰囲気を持つ3階建ての建物があった。
この窓からシャフツベリー・アベニュー側へ向けて、斜め向かいの古い西洋建築だ。
もともと違う目的で建てたビルを、改装したのだろう。
『Seven Seas』の看板の下には、少し小さめの文字で”casino”と入っている。
「見ての通り、カジノの名前や。『セブン・シーズ・エンターテイメント』は、世界的カジノチェーンを経営している企業の名前。『Seven Seas』の経営とか、家庭用ゲーム機作ったり、ゲーセンに置いてるゲーム作ったりしてるわ。『トレインジャック』とか『キンブ・オブ・シーズ』とか知らんか?」
ヒデが教えてくれる。
「あっ、なんか聞いたことあるかも。その『セブン・シーズ・エンターテイメント』って、この焼肉屋さんとも関係あるの?」
軽い気持ちでヒデに質問する。
さきほど高橋氏は、そのようなことを言いかけていた筈だ。
「そういうのんは、どうでもええやん」
「えっ・・・」
浮かない顔でヒデは、実に素っ気なく答えた。
なんとなく気不味くなり、助けを求める気持ちで西院の様子を伺うが、彼は黙ってメニューに目を落としていた。
『セブン・シーズ・エンターテイメント』と・・・あるいは、その会社の代表だという、チョン・ミンス会長と何かあるのだろうか。
一介の若い学生と、大企業とでは、あまり接点がないような気がするのだが。

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