暫くして、再び高橋氏が部屋へ現れた。
両手に大きな銀色のプレート。
その上に高そうな肉が美しく盛り付けられている。
暫くは高橋氏がトングを使って肉を焼いてくれていたが、追加注文をした際に、ヒデが交代した。
「焼き肉最高〜!」
肉が焼き上がるたびにタレが入った小皿へ運ぼうとしていた西院の箸を、トングで挟んで阻止するヒデ。
「お前一人で食いすぎやろ、ええ加減にせえ」
「だって美味いんだもん、肉ちょうだいよ〜、ヒデちゃん〜」
「誰がヒデちゃんやねん、気持ち悪いわ! 嵯峨、お前こそ遠慮せんともっと食えよ。もう一皿頼んだからな」
そう言いながらヒデが焼き上がった肉を、僕の取り皿に入れてくれた。
「ありがとう。でも、結構食べたし、僕はもういいかな」
「ほんまかいな。女の子みたいなやっちゃなあ・・・ほな、冷麺食うか?」
ヒデが聞いてくれた。
「冷麺なんてあるの?」
倫敦のど真ん中に本格的な焼肉店というだけでも驚きだというのに、冷麺とは。
「お待ちどう様・・・ああ、ちょうど良かったみたいですね。もう一皿持って来ましょうか?」
「ああ、高橋さん肉はもうええわ。冷麺持って来てくれる?」
空いた皿の変わりに肉を置こうとしていた高橋氏に、ヒデがオーダーの追加を申し出た。
「畏まりました。それじゃあ冷麺3つ持ってきますね。・・・ええっとこのお肉はどうしましょうか」
「そやなあ・・・悪いけど、下げてもうてええかな。代金はちゃんと払うから、また終わったら皆で食ってもうて」
「えぇ・・・下げちゃうの?」
西院がショックも露わに言った。
「嵐山様がそう仰ってますけど・・・」
「お前は5人分ぐらい一人で食ったやろ。冷麺もあんねんから、この辺にしとけや」
「ええっと・・・僕は冷麺は要らないかな〜・・・肉がいいなぁ・・・。それと嵐山じゃなくて、西院嵐です」
最後の訂正は高橋氏に向けられていた。
「こう仰ってますけど、どうしましょうか」
結局西院のリクエストにより、肉はそのまま。
新たに冷麺が二鉢運ばれてきた。
冷麺は麺のコシがしっかりとしていて、上にたっぷりのキムチと、細く切った梨や胡瓜、蒸し鶏が盛り付けてあり、半分に切った茹で卵がふたつ、そして鉢が半分ほども隠れる大きさの西瓜が、どーんと飾ってあって、彩も美しかった。
「へぇ・・・焼肉のあとの冷麺って、さっぱりとしていて美味しいもんだね。西院も食べたらいいのに」
「いや、俺はこっちでいい・・・」
ヒデからトングを引き継ぎ、一人焼肉実施中の西院は、眼鏡を曇らせながらそう呟いた。
「こいつは漬物全般にあかんねん。前かて、土産でもろた(注*貰ったの意)京漬物、せっかくおすそわけでやったのに、いらん言うて返しやがったからな。倫敦やったら中々食えんから、良かれ思うてやったのに、この恩知らずは」
「いやまあね、僕だってあのときは本当に悪いと思ったんだよ・・・。けど、食えないもの貰ったって勿体ないだけじゃん。どうしても駄目なんだよね、とくに発酵食品の酸味ってさ」
「まあ、それは好き好きだからね・・・仕方ないかも」
「漬けもんが食べられんって、お前はほんまに日本人かいな」
「ええと、キムチは日本の漬物じゃないと思うけど・・・」
まあ、漬物全般に駄目となると、確かに日本人らしくはないかも知れない。
その後もなんだかんだと言い合いをしてはいたが、要するにヒデと西院は、しょっちゅうこうして一緒にご飯を食べたり、お土産を交換しあったりしているということだ。
要するに、二人はとても仲が良いらしい。
結局支払いはヒデが全額持ってくれた。
親族が経営しているというような話だったと思うが、ヒデは毎回ちゃんと自分で支払いをしているらしかった。
「高そうな店だったのに、本当に御馳走になってしまって良かったの?」
「気にせんといて。今日は俺が勝手に引っ張って来たし」
「そうそう。見ての通りこいつボンボンだからさ」
背の高いヒデの後ろから肩に抱きつくようにして、西院が言った。
「お前は少しぐらい気にせいや!」
「ぐへっ・・・カルビがリバースするう・・・」
ヒデにエルボーを入れられた鳩尾を押さえながら西院が言った。
ベスナル・グリーンに住んでいるという西院と地下鉄のトテナム・コート・ロード駅で分かれて、僕らはノーザン線の乗り場へ向かった。
隣を歩くヒデに、君はどこまで行くのかと聞くと、僕はどこに住んでいるのかと聞きかえされる。
逆質問だ。
「トゥーティング・ベックだよ。ゾーン6の・・・ええとヒデは?」
「ほんな俺も、とりあえずそこまで行くわ」
言いながら、改札にIC乗車券を翳して先に入ってしまう。
仕方なく後を追った。
「そこまでって・・・だってここから30分以上あるし・・・え?」
するとヒデが腕を背中へ回し、彼の傍へ身体を引き寄せられた。
そして軽く身を屈め、僕の耳元で囁くように彼が言った。
「あんな、嵯峨は気い付いてへんかも知らんけど、さっきから変な連中が付いて来よんねん」
「嘘・・・って、うわっ・・・ご・・・Sorry」
咄嗟に後ろを振り返ろうとして、その場でたたらを踏む。
帰宅ラッシュアワーに差しかかった地下鉄の通路は、かなりのスピードで沢山の人が往来し、迂闊に足を止めると、後ろから押し寄せる人並みに衝突しそうだった。
顔を顰めながら僕らを避けて通り過ぎていく女性に小さく謝ったが、たぶん聞こえてないだろう。
そしてもう一度、改めて後ろを振り返る。
「嵯峨、行くで」
「あ・・・うん」
ヒデが僕の肩を抱くようにして、先を急ごうとしていた。
立ち止ったとき、確かに東洋人の男たちと目が合っていた。
一人はスキンヘッド、もうひとりは金髪の二人組。
どう見ても、堅気の大人には見えない。
しかも、なんとなく彼らには見覚えがある・・・ということは、清華街からずっと付けていたのだろうか。
だとしたら、目的は一体何だ・・・?
急に怖くなってきて、ヒデの方へ身体を寄せると、肩を引き寄せる手に力が入ったのがわかった。
不思議と安心する。
「ちょっとぐらいニュースで聞いて、知ってるかもしれんけどな、最近この辺で留学生が失踪する事件が続いとって・・・なんや?」
もう一度後ろを振り返ると、スキンヘッドの男とまた目が合ってしまっていた。
そして。
「ああ・・・ううん。そっか・・・」
慌てて前を向く。
再び目が合った瞬間、なぜか今度は、スキンヘッドの男からウィンクをされたのだ。
それがあまりに思いがけず、しかもウィンクが非常に似合わなくて、僕が軽く吹き出したものだから、ヒデに不審がられていたようだった・・・。
「日本人も結構被害に遭っとるみたいやねん・・・せやから、嵯峨も気いつけや。暗なってきたら、あんまり一人歩きせんほうがええわ」
ヒデが真面目に話を続けていた。
車折が言っていた話である。
そんな事件が起きているときに、見知らぬ男連れから後をつけられて、呑気に笑っている場合ではないだろう。
気を引き締める。
「うん・・・あ、でもそれなら、西院は大丈夫だったの?」
「確かにベスナル・グリーンは、ちょっと物騒なところやからな」
「だったら、僕よりも西院を送ってあげないと」
「嵯峨はほんまに何もわかっとらんなぁ・・・俺が送りたいんは西院やなくて嵯峨やねんけど」
「それって・・・」
なんだか胸の鼓動が早くなる。
「いや・・・つまり、西院みたいな訳わからんヤツ、襲うモノ好きはおらんやろ。現に後ろのおっさっんらは嵯峨のことつけとるやん。ほら、さっさと歩きや!」
そう言って一歩前に出ると、ヒデが先にエスカレーターのステップへ乗った。
一段空けて、僕もあとに続く。
後ろから見える形のよい彼の耳の先が、僅かに赤らんでいるように見えたのは、都合のよい僕の錯覚だろうか。
結局ヒデは下宿の前まで送ってくれることになった。
商店が立ち並ぶアッパー・トゥーティング・ロードは、すっかりカラフルな照明に飾られ、夕飯時の来店客で賑わうインド料理店の手前で短い坂を上ってゆく。
彼に手を引かれたまま、僕も後に続いた。
先に帰って来た誰かが閉め忘れたのだろうか、・・・門が開きっぱなしになっていて、砂利を敷いた前の通路から中庭の白いベンチが見えていた。
そこで立ち止り、ヒデに向き直る。
「今日は色々とありがとう。それと御馳走様でした」
「なんやねんいきなり・・・どういたしまして。俺が無理矢理連れて行ったんやから、礼なんていらんねんけどな」
「今度は僕が何か御馳走するね」
「いや、ほんまにええねんけど・・・そうやな。ほんな、弁当でも作ってきてもらおうかな」
「お弁当・・・? 皆でピクニックにでも行くの?」
そういうのも良いかも知れない・・・でもお弁当なんて、作ったことないんだけど。
「いや、皆やなくて俺と二人で・・・別にどこも行かんでもええけど、なんか手料理とか、食べさしてくれたら嬉しいなあって・・・」
「手料理・・・そっか、ヒデってこっちに来て長いんだよね。家庭の味とか、恋しいよね。・・・だったら今度、トゥーティング・ベック駅前にある『金剛山』って食堂に行ってみる? 下宿の御主人が経営しているんだけど、メニューが家庭料理主体らしくて・・・」
「いや、そういう意味ちゃうねんけど・・・」
ヒデの視線が不意に宙で止まり、何かに反応をしたように言葉を切った。
「ヒデ・・・?」
何だろうと思って首を傾げていると。
「ほな、そろそろ俺も帰るわ。また明日な」
「・・・うん。じゃあね」
暗がりを遠ざかってゆく、長身の背中を見送る。
僕も下宿へ戻ろうと踵を返した途端に、身体が硬直した。
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