***第2章*** はっ・・・ああっ・・・モンティ・・・! だが、次の瞬間には、頭からタオルを被った彼が、元の位置から僕を見ていた。
時計を見ると8時20分・・・・いや、4時40分過ぎだった。
「焦ったぁ・・・」
早朝のアッパー・トゥーティング・ロードは、まだ交通量が少なく、騒音もそれほど五月蝿くはない。
ベッドから足を下ろしてスリッパを履き、とりあえずトイレへ向かった。
「まったく何て夢を見るんだか・・・・欲求不満なのかなあ」
下着が濡れていない事がせめてもの救いである。
下宿とはいえ、父親の友人宅の寝具を使わせて頂いて、夢精などしていたら、自己嫌悪で二十歳を迎えるぐらいまでは立ち直れないことだろう。
10代の硝子のハートが壊れなくてよかった。
トイレで用を足し、洗面台で手を洗う。
これで暫くは、悶々とせずに済むだろう・・・まったく情けない。
不意に背後へ気配を感じ、鏡を覗いてギョッとした。
「ジェ・・・ム・・・!?」
180センチを超える長身に、見る者の心を射抜くような鋭い視線を放つ、モスグリーンの瞳。
そして掘りの深い顔立ちと、色白の肌・・・胸板の筋肉も発達していて立体的に盛り上がっている。
日本人ではないのだろうか。
荒々しい鷲・・・・なぜだかその表現がぴったりとした。
波打つ褐色の髪はしっとりと濡れて、ときおり毛先から雫が肌の上を伝い落ちている。
腰にバスタオルを1枚巻いただけの姿で、僕を見ていた彼は、どうやらトイレに隣接した風呂から、たった今あがったところのようだった。
鏡越しにモスグリーンの瞳が細められ、彼は意味深に笑った。
嘲笑・・・そのように見えた。
「なるほどね・・・・やけに色っぽい吐息が、壁の向こうから聞こえてくると思ったら」
その瞬間、10代の硝子の心臓が木端微塵に壊れるのを感じた。
彼がその入り口に立っているバスルーム、・・・・隣接する壁の向こうは、自分が今まで入っていたトイレだ。
「ち、違います・・・」
「何が違うんだ? 俺はまだ大したことを言っていないが」
男が厚い胸板の前で、太い腕を組んだ。
一見すると、白人か東洋人か迷う容姿だが、どうやらこう見えても日本人らしい。
よくよく考えてみれば、肌と目の色を除くと、彼は広隆(ひろたか)氏に似ている。
もっとも、広隆氏はこのように意地悪な喋り方をする男ではないのだが。
「で、ですから・・・ちょっと、便秘気味だっただけで、ええと・・・」
「ほう、お前は便秘になると、あんな力が抜けるような声を出して、便を絞り出すのか」
「も、もう・・・何だって良いじゃないですか! とにかく、お腹が痛かったんですよ」
「腹痛ねぇ・・・まさかと思うが、アイツともう寝たのか? 便秘のときは良くないぞ」
いきなり話題を変えられて、目を丸くする。
「アイツ?」
「昨日ここまで送らせていただろう。お袋がえらい興奮して、お前に迷惑をかけたかと、家族としては一応これでも、心苦しかったんだが・・・」
どうやらヒデの話のようだった。
そして彼のお袋というのは、有栖(アリス)さんのことだろう。
「えっと、見てらしたんですか? 彼はクラスメイトで、昨日の帰りに寄り道をして遅くなったから、ここまで送ってくれて・・・っていうか、変な誤解しないでくださいよ!」
よく考えたら、質問の内容がとんでもなかった。
初対面で失礼にも程がある。
「ふん・・・クラスメイトねぇ。色々と突っ込みどころ満載なんだが・・・まあいい。こっちも時間がないからな」
そう言うと彼が大きくこちらへ足を踏み出し、あっという間に視界が遮られた。
「やっ・・・」
一瞬で目前に迫ってきた、逞しい肩と、シャワーで火照ったピンク色の肌。
彼が放つ熱気に囚われ、脳裏に生々しい光景が再現される。
心臓がドクンと音を立てた。
モスグリーンの瞳が、興味深そうに目を見開き、次の瞬間それがいやらしく細められる。
「おい・・・ひょっとして、俺を誘っているのか?」
「えっ・・・?」
「この棟には俺とお前しかいないっていうのに、部屋の鍵を開けっ放しにして寝たり、あんな声を聞かせたり・・・」
「だ、だからあれは、お腹が痛くて・・・ちょっと・・・な、何を・・・!?」
不意に顎の下へ指を入れられて、グイッと顔を上げられた。
至近距離にモスグリーンの瞳が迫った。
その顔が、夢の中に現れた彼と、段々区別がつかなくなる・・・。
「・・・まあ、男にしちゃあ悪くはないかもな」
タオルが僕の頬を撫でて擽ったい。
「あの・・・」
何をされるのだろうかと、ドキドキしていると、そのまま彼は僕から手を放してしまう。
そして目の前で、頭のタオルの端を自分の顔に押し付けると。
「栗の花の匂いだな・・・」
「いやっ・・・・・!?」
咄嗟にタオルへ手を伸ばしていた。
だが、彼はひょいと攻撃を躱しながらタオルを自分の背中に隠すと、次の瞬間には脇をすり抜けて、洗面所から出て行ってしまう。
「安心しろ、冗談だ。・・・新しいタオルなら、洗面台の下に入っているから、適当に使っていいぞ」
「・・・・・・」
顔から火が出るとはこのことだと思った。
これでは一人でしていましたと、自分から告白したようなものである。
最悪だ・・・。
「そうだ、鳴滝嵯峨(なるたき さが)」
「えっ・・・?」
不意に廊下の奥から呼ばれて振り返る。
僕のフルネームを呼んだ彼は、僕の部屋の前・・・つまり屋根裏部屋への階段の上り口に立ち止まり、こちらを見ていた。
「あれをどこで手に入れた?」
彼はそう質問した。
「あれって・・・?」
「『Lapsus Calami』の初版・・・持っているだろう?」
「ラプス・・・何ですか?」
耳慣れない言語を彼は発したが、残念ながらちゃんと聞きとれなかった。
僕の反応が期待外れだったのだろう。
彼は諦めたように肩をすくめると、そのまま階段へ消えてしまう。
「必要なら俺のところにあるから、取りにきてくれ。俺の部屋も、鍵はいつも開けっぱなしだ」
壁の向こう側から、徐々に遠ざかる声がそう付け加えていた。
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