ダンジョンを出ると、外は綺麗な夜景に包まれていた。 タワー・ヒルから地下鉄に乗り、そこから何度か乗り換える。
ライトアップされたタワー・ブリッジが、テムズの川面に、キラキラとしたシルエットを映しだしている。
倫敦塔もぼんやりと、白く浮かび上がっていた。
ロンドン・ブリッジ駅へ行けば早いのだが、なんとなく来た道を引き返してしまい、再びタワー・ブリッジを押し黙って歩く。
「なあ・・・ほんまに謝るから、機嫌直さへん?」
ヒデがポツリと言った。
「べつに・・・怒ってないって」
「せやけど嵯峨、ずっと黙っとるやん・・・せっかくダンジョン来たのに、なんかアトラクション見ても元気なかったし・・・」
「だから怒ってないって・・・ただ、えっと・・・初めてだったから」
「え・・・」
「ちょ・・・ちょっと、ヒデ?」
突然ヒデが橋の上で立ち止まってしまい、引っ張られるようにして僕も足を留める。
その時になって、ずっと手を繋いでいたことを思い出した・・・指も絡めたまま。
自然にそうしていたことを、今更思い知らされる。
キスをして、手を繋いで歩いて・・・これではまるで・・・。
「それ、ほんま・・・?」
「なんだよ・・・本当だよ・・・だから、えっと・・・ちょっと、動揺したっていうか、その・・・心構えも出来てなくて、あっという間に終わっちゃって・・・ええと・・・」
「なあ、つまり、嫌じゃなかったんか・・・・?」
「えっ・・・?」
そう問われて、ヒデを見上げる。
真剣な目をした彼が、まっすぐに僕を見ていた。
「それは・・・」
自分自身に問いかけるまでもない・・・嫌な筈がない。
だって、僕はたしかに・・・・。
「わからんかったら、もう一回してみるか?」
「ヒデ・・・?」
端正なヒデの顔がだんだんと近づいて来る。
切れ長の目が瞼を閉じことに気付いた途端、視界がぼやけ、再び口唇に柔らかい感触があたった。
さきほどよりも、ずっと長い。
僕は彼とキスをした。
そのことを、しっかりと実感しながら。
下宿とは違う方向へ向かっていると途中で気付いたが、僕は黙って彼に付いて行った。
電車の中でも、駅の通路でも、そしてレスター・スクエアで降りて、ソーホーへ向かって歩いているときでさえも、ヒデは僕の手を放さず、僕もまた、指を絡めながら繋いでいる手をそのままにしていた。
そして僕は認めざるを得なかったのだ・・・彼に恋をしていることを。
不意にヒデが立ち止る。
「あ、この辺って・・・」
賑やかな通りの向こう側に、赤く浮かんでいる牌楼を見つけた。
ただし、昨日やってきたときと、反対側の方向に見えている・・・ということは、ヒデの親族が経営している『京城屋』も、牌楼の向こう側にある筈だった。
また店に行く気なのだろうか・・・そういえば夕食どきだろうし、いい機会だから今日は僕が彼に奢ろうか・・・そう考えているうちに、また彼に手を引かれた。
「え・・・ご飯食べるんじゃないの?」
ライル・ストリートと書かれた道を、そのまま歩いて行くヒデは、少し目を丸くして僕を見る。
「なんや・・・お腹空いたんか? ほな、どっか入るから、もうちょっとだけ待ってくれるか・・・?」
「それは別にいいんだけど・・・」
ライル・ストリートからさらに角を幾つか曲がり、辺りの雰囲気がどんどん変わって行く。
どうやら清華(しんか)街から抜け出したようだった。
目の前に大きな通りが見えて来ると、ヒデの足取りが急に早くなる。
ひょっとしたら、今まで道に迷っていたのだろうか・・・そう思いかけたときのこと。
「ヨンムン!」
後ろから呼びかけてくるような声が聞こえて、僕は思わず振り返った。
白っぽいスーツを着て、パンツのポケットに片手を入れ、まっすぐにこちらを向いて立っている男がいる。
年齢は20代半ばぐらいだろうか。
髪は少し長めで、明るい茶色に見えたが、おそらく染めているのだろう・・・どう見ても東洋人だった。
しかし、5メートルほど離れた場所にいた彼は、夜目にでも美形だと断じることができる。
一見すると、モデルか俳優・・・・それほど美しかった。
その彼はどう見ても僕を・・・あるいはヒデを見ている。
「えっと・・・あの・・・」
道でも聞きたいのだろうかと思い、近づこうとした途端、ヒデから強く手を引かれた。
「何してんの・・・はよ行くで・・・」
「えっ、でも・・・」
一度はヒデ自身も止めていた足を再び動かし、僕らはすぐにシャフツベリー・アベニューへ出る。
大通りへ出ると同時にやってきたタクシーを止めて、ヒデはその車に乗り込んだ。
なんとなく気になって、もう一度だけ後ろを振り返る。
さきほどの男性は、少し立つ場所を変えてはいたものの、壁に凭れるようにして、腕を組み・・・やはりこちらを見ていた。
観察されている・・・なぜかそう思った。
「嵯峨」
中から呼ばれる。
「ねえヒデ・・・今の人・・・」
言いかけたところで、ヒデが運転手へ向けて、目的地を告げた。
僕の下宿の住所だ。
仕方なく車へ乗り込む。
車はアッパー・トゥーティング・ロードへ向けて動き出していた。
ヒデが下宿の住所を告げた以上、どうやら夕食の予定は変更のようだ。
車の中でヒデは押し黙ったままだった。
雰囲気に飲まれて僕も言葉を発する気になれない。
手はいつの間にか放されている。
なんとなく寂しい気がして、僕は膝の上で己の指を握りしめていた。
窓を流れる夜の景色。
川の手前にビッグ・ベンを見つけて、なんとなく目でそれを追いかけた。
車がウェストミンスター橋を渡り、知らない道を、恐らく南下する・・・・地図上で見るなら下宿はこの辺りよりずっと南にあるから、南下で間違いないだろう。
さきほどの綺麗な男性・・・彼が現れてから、ヒデの様子が急に可笑しくなったことは、確かである。
ただの偶然・・・・そう思いたかったが、それにしては不自然過ぎた。
そもそも、下宿へ帰るならば、なぜわざわざソーホーへやって来たのだ。
会話を思い返してみれば、ヒデは少なくとも食事をするつもりで来ていたわけではなかったのだ。
何かしらの目的があって来たものの、予定を変更した・・・そうだろう。
あの男性・・・・彼はやはり、ヒデと無関係ではない。
なら、ヒデはなぜ彼を無視した?
・・・そう言えば彼は、何かを言って僕らを呼びとめようとしていた。
「・・・・ヨンムン」
なんとなく口にして、強い視線を感じ、車内で視線を彷徨わせた。
「えっ・・・」
ルームミラーの中では、ヒデが僕をじっと見つめていた。
驚いて隣の彼を振り返る。
「・・・・・・・・・」
あまり大きくはない目を、つり上げ気味に見開いて、僕を見ている。
「ヒデ・・・なんで・・・」
なぜか、彼はこんな至近距離で、僕をきつく睨んでいた。
「嵯峨・・・お前、ほんまは・・・」
「えっ・・・?」
そのとき、運転手が目的地へ到着したことを告げ、車を左端に寄せて停止させた。
ヒデは僕へ先に降りるように告げると、車に残って精算を済ませ、後から出て来る。
有無を言わせぬ彼の調子に何も言えず、僕は黙って従うしかなかった。
車から降りて来ると、彼はすぐに僕の手をとって、下宿へ通じる坂道を上って行く。
聞くなら今しかない、・・・けれど、なんと質問すればいいのか、言葉が思い浮かばない。
「嵯峨、ああいう兄ちゃん好きなんか・・・?」
「え・・・、うわっ・・・」
坂を上りきったところでヒデが立ち止る。
その背中にぶつかりそうになった。
「さっきからぼうっとして・・・なんや気分悪いねんけど」
「な、何言いだすんだよ、いきなり・・・!?」
ヒデは手を放すと不貞腐れたように腕を組む。
「そら、まだ何も告白しとらんし、つきおうてるとは言えんけど。・・・せやけど、チュウもしたし、手繋いでも嵯峨嫌がらへんかったし、その・・・それなりに脈あるんかなぁって思っとったのに、綺麗な兄ちゃん見た途端ぼうってして・・・」
「ち、違うっ、違うって・・・そうじゃなくて、ええっと・・・」
「ほんまに?」
「・・・何が?」
「せやから、ほんまにあの兄ちゃんに見惚れてたんとちゃうん?」
「そりゃ綺麗な人だったけど・・・」
「やっぱり、嵯峨は、ああいう美形で、金持ちそうな兄ちゃんが好みなんか、あ〜そうでっか」
なんだか段々と調子が狂ってきた。
これでは話どころではない。
「違う、違うって・・・」
「そら俺は、イケメンちゃうし、あんなええスーツ持っとらんし、ええ大学も出とらんよ。・・・そういうのんしか、嵯峨は相手にせえへんのか?」
「何の話だよ、僕は全然そんなこと言ってないって・・・・っていうか、ヒデは僕と同い年ぐらいでしょう?」
そういえば年齢を知らなかった。
「俺は19やけどな」
「あ、二つ上だったんだ・・・まあ、別に大学なんか行かなくても、関係ないし・・・」
「まあ、大学は行っとるけどな」
「へえ、そうなんだ・・・どこ?」
なんとなくヒデは頭が良さそうな気がした。
「・・・・どこだってええやん、そんなん・・・なんや、やっぱり学歴気になるんかいな」
「そんなわけないでしょう。大体僕男だよ? 嫁ごうってわけじゃないんだから、気になるわけないじゃん。・・・ただ、僕の志望校と同じだったらいいなって思っただけ」
言ってから、恥ずかしくなった。
これではヒデを恋愛対象として見ていると、宣言したも同然だった。
まあ、今更だが。
「・・・・それは絶対ないな」
「どうして・・・やっぱり、ヒデすっごく頭いい学校行ってる・・・?」
僕の粗末すぎる英語力を知っていれば、学力レベルなどすぐにわかったことだろう。
こんな学力で、短期とはいえよく留学してきたと、呆れたかもしれない。
ヒデはというと、授業こそいい加減に受けていたものの、英語力のレベルは遥かに高かった。
それこそ今更なぜ、語学スクールへ・・・それもあのような初心者レベルのクラスにいるのか、理解ができないほどだ。
「そういう意味やなくて・・・日本の学校とちゃうから」
「そうなんだ・・・っていうか、だったらなんで今更・・・」
「嵯峨・・・あんな・・・ほんまは俺・・・」
不意にヒデがそう言って、僕をじっと見つめてくる。
なぜか、とても悲しそうに見えた。
そんな目をして欲しくはなくて・・・気が付いたら、自分から言っていた。
「もう一回・・・しない?」
「えっ」
「えっと・・・だから・・・」
キスとは中々言えず。
すると。
「嵯峨」
「えっ・・・あ・・・」
優しく名前を呼ばれ、次の瞬間には顎に手をかけられて・・・こんなこと、最近誰かにされたな・・・そう思った。
彼の顔が徐々にぼやけて、自分から瞼を閉じ・・・口唇に息遣いを感じた。
『Lapsus Calami〜slip of the pen』***第3章***へ
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